祝福

 深夜、勇利が安らかな寝息を立てるベッドに音を立てないよう潜り込んだ。
 掛布団をめくるとお風呂上がりの嗅ぎ慣れた勇利の匂いがして、深く息を吸いこむ。俺の為に半分のスペースを開けて眠る恋人にただいまとおやすみの口付けを落とした。ベッドの中はあたたかく、疲れた身体に睡魔の波が押し寄せる。
 スケート以外の仕事も苦ではないが、拘束時間が長いと流石に辟易としてしまう。勇利と過ごしたい。一緒にスケートがしたい。勇利のそばにいられないときは、時間の流れがやけに遅く感じる。そばにいるときはいつも時間など瞬く間に過ぎ去ってしまうのに。
 本当は抱き締めて眠りたかったけど、起こしてしまうのは本意ではなかった。代わりに布団の中で触れた手に自らのそれを重ねる。眠る勇利の体温が繋いだところから流れてくるようだった。
 それだけで、何があっても救われた気がした。俺の帰る場所は、いつもここにある。

 

 目を覚ますと、隣にあったはずの体温は既にいなくなっていた。厚手のカーテンは開かれ、朝の日差しを柔らかく部屋に取り入れている。ベッドサイドに置いていたスマートフォンを取り上げて時間を確認すれば、普段の起床時間とさほど変わらなかった。
 もしかすると勇利はもうランニングに出掛けてしまったかもしれない。俺が勇利の目覚めに気付けていたら、一緒に走りに行けたのに。そう思ったものの、俺を起こさないよう気遣ってくれたのだろう。勇利はそういう人間だった。
 起き上がって大きく伸びをする。出掛けているのなら、朝食でも作って帰りを待つことにしようか。椅子の背に掛けておいたガウンを羽織り、俺は寝室を出た。

 予想に反して、勇利はバルコニーに続くリビングの窓辺にいた。野暮ったいスウェットの後ろ姿でレースのカーテンをめくり、窓の外を覗いている。自然と引き寄せられるように近付けば、コーヒーの芳しい香りがした。
「勇利、おはよう」
 後ろから抱き締め、おはようのキスを強請る。
「おはよ、ヴィクトル。まだ寝てて良かったのに。昨日も遅かったでしょ?」
 勇利が驚くこともなく振り向き、唇同士が軽く触れ合う。カーテンの端を掴む勇利の反対の手には、まだ湯気の立つマグカップがあった。
「目が覚めちゃったんだ」
「そっか。ね、ヴィクトル。今日は良い天気だよ」
 俺が外を見られるよう、カーテンを大きく開けてくれた勇利に微笑み返す。寝起きのあどけない表情が朝日に輝いてよく見えた。
「うん、どこか行きたいところはある? 少し遠出でもしようか」
 うーん、と小さく声を上げながら勇利が身動ぎをした。抱き締めていた身体を解放すると、触れていた場所から熱が逃げていく。勇利は窓際を離れ、手にしていたマグカップをローテーブルに置いた。
 離れてしまったことが名残惜しくて、再び戻ってきた勇利の右側に肩が触れあう距離で並び立つ。

 最上階に位置するこの部屋は、晴れた日にはサンクトペテルブルクの遠くの街並みまで見渡すことが出来た。
 朝日に包まれる俺の育った街を、勇利と二人で見ている。多大な幸せに、この光景が夢ではないかと疑ってしまう。
 今となってはそばにいることが当然のように感じるが、実際はそうではない。奇跡と二人の努力と、周囲の応援が重なった結果だった。そばにいたい、その為に出来ることをお互いが行動した成果であり、支えてくれた人達がいる。勇利もよく理解しているだろう。
 きっと勇利は、俺がこんな風に考えているなんて気付いていないだろうけど。そう、気付かなくて良い。

「僕、この間行ったカフェが良いな。マッカチンも入れるあのテラス席のお店。駄目?」
 こちらを向いた勇利が、小首を傾げて見上げてくる。このお願いの仕方に俺がめっぽう弱いことを、最近の勇利はついに学習してしまった。可愛い恋人の甘えになんて、到底抗える訳がない。
「あの店のチーズケーキなら、俺と半分にするなら食べても良いよ」
「本当!?」
「ああ、今日は特別」
 やった、と弾む明るい声と澄んだ瞳に愛おしさが募る。穏やかな朝日が勇利を照らしていた。艶やかな黒髪が光に照らされ、滑らかな肌を際立たせる。
 ふとした瞬間に感じるのだ。かけがえのないときを過ごしていると。

「ヴィクトル?」
 微笑みだけを返し、開いていたレースのカーテンを無言で引き寄せる。カーテンを吊るすランナーがレール上を滑り、控えめな音を立てた。リビングに差し込んでいた光をレースが柔らかく遮る。
 閉じたカーテンと窓の間に入り込み、俺達二人はリビングから姿を消した。窓に背を預けて、勇利の正面に立つ。カーテンの端と端をたぐり寄せ、勇利の背中を覆う。俺の瞳には、勇利だけが映っていた。
「花嫁のベールみたいだ」
「結婚式? 僕ドレスは着ないよ」
 結婚式を挙げることには疑問を持っていない返答に、胸が締め付けられる思いだった。同じ未来を見ている幸福に、唇を噛み締める。
「分かってるよ。だから、こうしてベールを被った勇利が見られるのは俺だけだ」
 勇利のタキシード姿を想像して胸が高鳴った。実際に見たら、きっと感激で気の利いた言葉も言えないのだろう。ただ釘付けになっているだけで、勇利に笑われてしまうかもしれない。
「ヴィクトルのタキシードかぁ、絶対格好良い……」
 頬を赤らめて呟く声で、現実に引き戻された。同じことを考えていたと知り、勝手に口元が緩む。
 纏ったベールが朝の光を受け、勇利を一際輝かせる。神々しさに涙が出そうだ。俺は手を伸ばし、勇利の頬の温もりを自分の手のひらへと移した。瞼を閉じた勇利が頬をすり寄せる。
 安らかな表情を見せる勇利に、そっと顔を近付けた。

 部屋の隅で隠れるように、誓いのキスを重ねる。今この瞬間は、幸せな夢ではないのだ。
 柔らかく降り注ぐ朝日だけが、俺達を見守っていた。

2024年3月1日