「怒らないで聞いてくれ」

 仕事を終えたヴィクトルが自宅へ帰ってきたのは、時計の針が零時を越えた頃だった。

 僕はサンクトペテルブルクに活動の拠点を移し、ヴィクトルの家に居候をさせてもらっている。最初は緊張が抜けず家に入ることすらぎこちなくて苦労したけど、最近はただいまを言うのにもようやく慣れてきたところだ。
 環境の変化は、予想以上にストレスがかかる。それでも僕がスケートに集中出来ているのは、間違いなくヴィクトルのお陰だった。居候が決まってから、ヴィクトルは僕が不自由しないように部屋を整えてくれたのだと言う。これも出世払いになるのだろうか。怖くてまだ聞けていない。

 昨夜、家主であるヴィクトルは、明日も朝早くに出ないといけないんだと憂鬱そうに話していた。僕が目を覚ましたときはもう出掛けた後だったようで、同じ家に住んでいるはずなのに今日は一度も顔を見ていない。この国が誇る至宝はいつも多忙だ。
 先程も「遅くなるから先に休んでいて」というメッセージが届いた。
 自分だって疲れているはずなのに、ヴィクトルは常に僕のことを気遣ってくれるとても愛情深い人だ。寝る前にきちんとストレッチをするように、との念押しまでされ、コーチとしての顔も忘れない。
 いつもは帰宅して食事とお風呂を済ませたら早めに寝てしまうことが多いけど、明日はオフだ。疲れて帰ってくるであろうコーチを労わるのも弟子の務めだと思い、リビングでヴィクトルの帰りを待つことにした。マッカチンは一足先に眠ってしまっている。

 ふと、右手の指輪が視界に入った。部屋の照明に反射して輝く輪郭を指でなぞる。
 指輪に触れていると、ヴィクトルの存在を感じて気分が落ち着くようになった。だけど今は、同時に焦りや不安も呼び起こされるようになってしまった。
 どうしたら良いのだろう。僕はいつも頭の片隅で、未来をぼんやりと考えている。

 気付けばコーヒーは冷めてしまったようだ。わざわざ淹れ直す気にもなれず、一口だけ啜りテーブルの上に戻した。手にしたスマートフォンに通知はなく、一人の部屋に溜め息が落ちる。こんな時間まで解放されないなんて。
 所々聞き取れるようになってきたロシア語が流れるテレビを見ていると、玄関のドアが開く音がした。
 こちらに向かってくる足音がだんだんと近付いてきて、リビングと廊下を繋ぐドアから僕の待ちわびていた人が顔を出す。
「ただいま、勇利」
「おかえりなさい」
 ソファから立ち上がってヴィクトルの側へ向かうと、脱いだコートを手にしたままヴィクトルが僕を抱き締めた。外は寒いのだろう、頬に触れたスーツはひやりと冷たかった。
「この時間まで起きてるなんて珍しいね。もしかして待っててくれたの?」
「えーっと、その……そう、たまにはコーチを労わろうと思って!」
 正直に言うのは照れくさかった。だけど他に良い答えも浮かばず、結局僕は考えていたことそのままを口にした。せめてと思って茶化そうとしたのに、顔が熱くて全然誤魔化せそうにない。
「コーチ想いの弟子を持って、俺は幸せだな」
 顔を上げたヴィクトルは柔らかな表情で笑った。ヴィクトルの嬉しそうな顔を見ると、僕の口も思わず緩んでしまう。
「外寒かったでしょ、コーヒー淹れようか?」
「うん、ありがとう」
 先に着替えてくるね、と言ってヴィクトルは自室に向かった。その間にヴィクトルの分を用意する。ついでに、さっきまで自分が飲んでいたマグカップにもコーヒーを新しく淹れ直した。

 テーブルの上に二つのマグカップを置いて、再度ソファに腰掛ける。湯気の出るマグカップをゆっくりと傾けていると、ヴィクトルがスーツから部屋着に着替えてリビングに戻ってきた。そのまま僕の右隣に座る。これがソファでの僕とヴィクトルの定位置だ。
「ありがとう。いただきます」
「ん、どうぞ」
「あったまるね。美味しい」
 勇利の淹れてくれるコーヒーはいつも美味しいね、愛情が入ってるからかな? なんて、なんだか嬉しそうに言うから、黙って肘でヴィクトルの脇腹を小突いた。変なことを言わないでほしい。こういうときどんな反応をするのが正解なのか、いつも僕には分からないのだ。
 何の反応もないので右隣をちらりと窺うと、優しげに微笑む顔がこちらに向けられていた。敵わないと判断した僕は撤退して即座に視線を逸らす。それでも尚刺さる視線については気付かない振りをすることに決めた。経験値が違いすぎるのだから、ハンデのひとつくらいあってもいいだろう。
 手にしたままだったマグカップに口付ける。顔が熱いのは、コーヒーの熱さのせいではなかった。ヴィクトルは人の体温を上げることが特技なのだろうか。平静を保つのも一苦労だから、もしそんな特技があるのなら僕にとっては迷惑でしかないのだけど。

「勇利」
 隣で動く気配がして、テーブルにマグカップを置く音がした。静かな声が僕の鼓膜を揺らす。顔の熱が引いていることを願いながらヴィクトルに視線を戻した僕は、目を見開いた。
 端正で誰もが見惚れる顔からは笑みが消え、代わりに硬い表情をしていた。急に訪れた変化に驚きを隠せない。今の短い時間の中で何かあったのだろうか。名前を呼ぼうとして失敗し、僕の声は形になる前に消えてしまった。
 二人きりの空気に聞き慣れた低い声が乗る。
「怒らないで聞いてくれ」
「なに? どうしたの?」
 怒らないで、とはどういうことだ。僕が怒るようなことをしたのだろうか。それとも、何か深刻な問題でもあったのか。思いがけない言葉に動揺しながらも、続く言葉を待った。
「勇利、俺と結婚してくれないか」
 ヴィクトルは僕の目を見て、確かにそう言った。

 僕達は恋人ではない。
 ハグもするし、この家に住み始めてからはヴィクトルにせがまれて頬におはようやおやすみのキスもするようになった。出会った頃から思っていたことだけど、ヴィクトルは僕に対して距離が近い。これが彼の普通という訳ではないらしいと気付いたのは、一体いつだったのだろう。
 ヴィクトルはきっと挨拶だとしても、僕以外の人とキスはしない。僕はそれを嬉しいと思ってしまった。同時に、この先も僕だけにしてほしいとすら願った。そんなことはあり得ないのに。
 それが、恋を自覚した瞬間だった。

 だけどその触れ合いには、親愛があったとしても性愛を含んだものは感じられなかった。ヴィクトルはいつも朗らかに、幸せそうに笑う。陽だまりみたいに。僕を呼ぶ声にもハグをするときの腕の力強さにも、いつだって優しさと愛情が滲んでいた。
 大事にされている。それだけは事実だ。それだけでいい。
 この想いは、一生抱えて生きていく。と思っていたのに。それが、なんだって?

「え? けっ……、え?」
 脳内の処理が追いつかない。僕は驚いて、意味を持たない単語しか紡ぐことが出来なかった。
「怒らないの?」
 言葉の意味を飲み込めずにいる僕を見てヴィクトルが何時になく不安そうな表情をしていたから、ますます慌てた。本当にどうしたんだ。そしてふと我に返る。そもそも、僕が怒るってなんだ。
「どうして、僕が怒ると思ったの?」
「俺が突拍子もないことを言うと、勇利はいつも顔を真っ赤にして「また変なこと言って! ヴィクトルの馬鹿!」って怒るだろう? だから、怒るかもしれないって思ったんだ。そんな顔も可愛いけどね」
 普段の自分がしそうな反応を指摘されて赤面する。恥ずかしかった。見られていた事実も、反応を予想されるくらいヴィクトルのそばにいたのだと気付いてしまったことも。
「……驚いてはいるけど、怒ったりなんてしないよ」
 小さく吐息を零す音を耳が拾い上げる。ヴィクトルをそっと窺うと、僕を映す鮮やかな光と視線が絡んだ。
「本当は怒って、軽蔑されるかと思った」
「軽蔑?」
 オウム返しになりながらも、ヴィクトルが考えていることを知りたくてそのまま聞き返した。いつもプラスやマイナスの感情をはっきりと表す瞳が、迷いを持ったまま揺れている。それでも僕に伝えようと「聞いてくれる?」と問いかけられた言葉に、こくりと頷いた。

「俺はストレートだし、勇利も女性が好きだろう? 俺は勇利にハグもキスもするけど、それは勇利が大好きだからで、汚れていない気持ちだった。でも、それだけじゃないって気付いたんだ。ハグもキスも、それ以上のことも全部、俺だけに許してほしいって。こうして一緒に住んでいるのにそんな目で見ていたなんて知られたら、軽蔑されるんじゃないかって不安だった。言うべきじゃないって思ったけど、勇利を愛してるんだ。金メダルで結婚を冗談にしたくない。これから先もずっと、勇利の隣にいられる約束が欲しい。愛してる。勇利の一生を、俺に頂戴? 勇利がいなきゃ、もう生きていけないよ……」

 沈黙が流れる。
 大事にされている。それだけでいいと思っていた。もっと、望んでもいいの? 本当に?
 都合の良い夢のような告白に心臓が早鐘を打っていた。落ち着こうと深く息を吐く。ソファに置かれていたヴィクトルの左手に僕が右手を重ねると、驚いたようにぴくりと動いた。いつも温かくて大きな手が、今は少し冷たい。
「ねえヴィクトル、僕も不安だったんだ」
 僕の真意を尋ねるように、ヴィクトルが首を傾げる。銀糸がさらりと揺れる音がした。
「ロシアの英雄であるあなたを、誰だって放っておかない。ヴィクトルがいつか結婚相手を連れて来たら、僕はこの家を出て行かなきゃいけない。そうなるのが怖かった」
 胸の奥に隠していた本音に、ヴィクトルは驚いたように目を丸くした。
「そんなことする訳……」
 ないだろう、と続けようとしたヴィクトルの言葉を視線で遮った。ゆるく首を振って、言葉を続ける。
「でもきっとそれが現実だし、大丈夫なように準備はしておかなきゃって思ってたんだ。それなのに結婚してくれだなんて、驚くに決まってるじゃないか。好きな人にプロポーズされて、嬉しくない人なんていないよ」
 僕は、泣きそうになりながら笑った。こんなことってあるだろうか。好きな人が想いを伝えてくれている。しかも、僕がずっと言えずにいたことを。
「いくらヴィクトルの存在を削ぎ落とそうとしても、ヴィクトルはもう僕の身体にも心にも、全部に染み込んでるんだ。そんなことしたら僕が僕じゃなくなっちゃうよ。あなたがそばにいてくれないと、僕はもう満足に息をすることも出来ないんだ。ねえ、責任取ってくれる?」

 ぽたりと水の音がした。ヴィクトルの長い睫毛が涙を弾いて、ぽつぽつとソファに雨を降らす。重ねていた手にもひとつふたつと、熱い涙が落ちた。
「当たり前だろう」
 引き寄せられ、力強い腕が僕を抱き締める。騒ぐ心音が、ぴたりと合わせた胸から聞こえてしまうかもしれない。だけどその理由も、もう誤魔化さなくてよかった。
「勇利がそんなことを考えてたなんて知らなかった。不安にさせてごめん」
「謝らないでよ、僕が臆病だったんだ。……ヴィクトルも、僕と同じだったんだね」
 広い背中に腕を回す。触れ合った全てが温かい。これから先もこの温もりに包まれていて良いのだと思うと苦しくて、それ以上に嬉しかった。

 一度身体を離して、二人で顔を見合わせる。
「勇利、俺と結婚してくれる?」
「勿論だよ、ヴィクトル。僕にはあなたしかいないんだ」
 澄んだ蒼い瞳からは、絶えず涙が溢れていた。喜びを噛み締めた笑みが愛おしい。
「ヴィクトルって案外泣き虫なんだね」
 流れる涙を指で拭ってやると、ヴィクトルも僕の頬に手を伸ばした。頬を伝った涙が、長く整った指を濡らす。
「勇利だって泣いてるじゃないか」
「僕のはもらい泣きだよ」
 ふふ、と笑いながら言い返す。何も悲しくないのに涙が止まらなかった。もしかしたら涙腺が壊れてしまったのかもしれない。構わずに熱の戻った手のひらに頬擦りをすると、指輪の硬い感触がした。もう指輪を外される日を想像して、心臓が潰れるような思いをしなくても済むのだ。
 ヴィクトルの微笑む顔が涙で滲む。幸せに浸るように、僕はゆっくりと瞼を閉じた。

 僕達は想いが重なって初めて、キスを交わした。

 ねえヴィクトル。
 怒るはずがないよ。だって、僕もヴィクトルと同じ気持ちだったのだから。

 

2024年2月14日