白雪は朱く

 風が窓の外で音を立てて蠢いている。昨夜から朝にかけて降った雪は、昼になって珍しく出てきた日差しを反射して明るく輝いていた。
 今日はクラブ内の整備が入る為に午前だけで練習を終え、俺はこれから勇利と二人で帰宅するところだった。
 午後は予定もないことだし、近くのカフェでランチにしようか。リンクメイト達との雑談で期間限定のメニューがあると聞き、瞳を輝かせていた勇利を思い出す。提案すれば、きっと喜んでくれるに違いない。勇利の笑顔を想像して、自然と口角が上がる。

 更衣室から玄関へと向かう廊下には背の高い窓が並び、外の日差しを室内に取り込むには最適だ。しかし晴れているとは言え、この風の強さだと外に出ればすぐに冷えてしまうだろう。
 ふと視線を感じた気がして隣を歩く勇利を見下ろすと、俺の肩越しに窓の外を見ていたらしい。今から外に出るというのに、俺の贈った白いマフラーは勇利の首から下げられただけだった。
 昔の俺なら隣を歩く相手のマフラーがきちんと巻かれていなくても、気にしたことすらなかったはずだ。自分がこんなにも世話焼きだったとは、勇利のコーチになるまで知らなかった。
 抱いていた細い肩を引き寄せて立ち止まる。不思議そうに俺を見上げる勇利が、きょとんとしながらもつられて立ち止まった。無防備な表情が愛おしい。
「外、かなり風が出てるみたいだ」
「そうだね。ここまで音が聞こえるもん」

 無意識に勇利のマフラーへと伸びていた手に気付き、ふと動きを止めた。あまり外で構い過ぎると、僕は子供じゃないと機嫌を損ねてしまうからだ。勇利の肩を抱いて歩くことについては怒らないところを見るに、そちらはどうやら許されているらしい。
 不自然な形で止まってしまった手を誤魔化そうと、自身の肩に掛けていた鞄を持ち直す。
「ほら勇利、ちゃんとマフラーして! 風邪ひいたら練習禁止だよ」
 指摘すると、カラメル色の瞳が何かを訴えるように俺を見つめた。それでも動こうとしない俺に焦れたのか、正面を向いた勇利が顎を上げて白い喉元を晒す。
「んぅ……」
 早くして、と勇利が無言で訴えている。不満げな表情と甘える仕草に心臓が早鐘を打った。

 どうして俺の恋人はこんなにも可愛いんだ?
 ふとした瞬間に見つけるのは勇利の新しい一面ばかりだ。勇利の全てを知りたい。新たな表情を知る度に、まだ俺には知らないことがあるのだと実感する。
 ただ、それを見せてくれるのは勇利が俺に心を預けてくれているからだった。恋人だけの特権に、密かに胸が踊る。
 無言で唇を寄せ、晒された鎖骨の上の柔肌に吸い付いた。
 驚いたのか、勇利の肩がぴくりと跳ねる。微かな甘さを含んだ吐息が耳をくすぐった。肌に触れたのはたったそれだけ。あとは何事もなかったようにマフラーを巻いてやり、付けたばかりのキスマークを隠す。
「ヴィ、ヴィクトル……!」
「これで勇利も、自分でマフラーつけるだろう?」
 ウィンクを飛ばすと、動揺した勇利が慌てて周囲を確認した。幸いにも周りに見ている人間はいなかったようで、ほっと胸をなで下ろしている。俺は何処だろうと気にしないのに。
 そして向き直った勇利は、いかにも不服そうな瞳を俺に向けた。
「……ヴィクトルがやってくれないのが悪いんだもん。僕待ってたのに」
「俺?」
「だって、家を出るときはいつもヴィクトルがしてくれるでしょ?」
 むう、と頬を膨らませる勇利の言葉に、何が不満だったのかをようやく悟った。
「……そうだね、ごめん勇利」
 口からはするりと謝罪の言葉が出たものの、一歩遅れて勇利の行動を理解しはじめた脳内のせいで顔はにやけてしまいそうだった。堪えようにも堪えきれず、やがて口からも笑いが零れた。
「な、なんで笑ってるの!」
「いや、ごめん、……可愛いなと思って」
 顔を赤らめて上目遣いに睨む表情すらも可愛い。ひとつ大きく息を吐き出して、まだ溢れそうな笑みを落ち着かせる。
 そうか、俺の役目だったのか。外で世話を焼かれることも勇利の日常になっていたという事実が、胸を柔くくすぐる。しかもそれはコーチとしてではなく、恋人として。
「外では恥ずかしがるから、俺がやると怒るかなと思ったんだ。許してくれる?」

 俺の言葉に、ようやく自分の行動を自覚したらしい勇利が目を見開く。くるくると回る表情は愛らしく、積もった雪を明るく染める陽の光のように俺の心を広く照らした。
 俯いてしまった勇利から、拗ねた小さな声が届く。
「……ヴィクトルのせいだよ。こんな風になるなんて、僕思ってなかった」
「うん、俺のせいだね。でも、やめてあげられない」
 今度は謝らない。勇利には何でもしてあげたいのだ。
 それにもっと甘やかせば、外でしても良いことが増えるかもしれない。勇利が気付かぬ内に、俺の役目を増やしてしまおう。それも、勇利への愛情表現のひとつだから。
「僕、もう暑い……」
「こら、駄目だよ。外は寒いんだから」
 それとも、皆に見せたいのかい? 態とらしく声のトーンを落とし、意地悪く問いかける。
 顔を上げてマフラーを外そうとしていた勇利が、ぴたりとその手を止めた。視線が俺の唇に止まったから、付けられたばかりのキスマークのことを思い出したようだ。涙目で睨む顔は可愛いだけで、残念ながら迫力がない。
 赤く染まった耳は、俺の心を溶かす熱さを持っていそうだった。唇で触れたら、次はどんな反応をするだろうか。

 勇利が完全に臍を曲げてしまわないように、湧き上がった衝動をぐっと堪えた。
「勇利、帰る前にカフェでランチにしよう。さっき話してた期間限定メニュー、食べていいよ」
「僕、そんなので誤魔化されないからね」
「手厳しいな。どうしたら許してくれる?」
 顔を赤らめたまま、勇利が正面玄関に向かって歩き始める。追いかけて距離を縮め、隣に並んだ。
「……いつもみたいにして」
 僕のこと、ちゃんと見てて。
 足元に視線を落としながら、ぼそぼそと呟く声が聞こえた。
 勇利が望む通りに、そっと肩を抱く。控えめに身を寄せてくる勇利が愛おしい。

 柔らかな頬を掠めるように口付けを贈る。勇利はくすぐったそうに笑い、決して怒ることはなかった。

 

2024年1月20日