恋は手の中に

 それは、勇利が俺と共にサンクトペテルブルクに拠点を移した最初の年のことだった。
 周りから二人の関係について色々と噂話をされることもあったが、俺達は多少距離が近いだけの、ただの師弟だった。そう、今のところは。
 俺が片想いをしているだけだ。勇利への想いを自覚してからずっと、それを隠し続けている。

 勇利との同居は順調だった。最初は恐る恐るという態度だった勇利も、今はもうすっかり慣れたらしく安心して暮らしている。同居を始めるにあたり、使っていなかった部屋を改装して勇利の自室を用意した。もちろん眠るときも別だ。寄せられる信頼を裏切りたくない。何よりも、今の心地よい関係を続けたかった。想いを告げてしまえば最悪、勇利のメンタルを壊しかねない。
 勇利への配慮を建前にして自身の覚悟のなさを正当化していた。幸せは期限付きで、不安は常に付きまとっていた。

 

 コーチとして勇利に帯同した大会を終え、帰国するタイミングで勇利の誕生日を迎えた。
 同室で手配したホテルは手狭ではあったものの、勇利からすると広すぎない方がちょうど良いらしい。今日は帰るだけということもあり、朝食を済ませたあとは寛いだ様子で過ごしていた。

 ベッドに腰掛けてスマートフォンを見ていた勇利に、俺は何気なさを装って祝いの言葉を口にした。
「そうだ。誕生日おめでとう、勇利。帰ったら一緒にプレゼント買いに行こうね。コート買ってあげる。本当は今日用意出来たら良かったんだけど」
 勇利の視線が手元から俺に移る。一度ぱちりと大きく開いた瞳は、微笑みとともに緩んだ。
「ありがとう。でも、気にしなくていいのに。それに僕、コートだってちゃんと持ってるよ」
「何着あったっていいものだよ。TPOに合わせて色々選べるようにしておかないとね。勇利は俺の気持ち、受け取ってくれないの?」
 冗談めかして伝えれば、太い眉尻がへにゃりと下がった。勇利は一度決めたら二度と曲げないほどに強情なときもあれば、押しに弱いときもある。今回は後者だった。好意を無下に出来ない勇利が愛おしい。
「うっ……、分かった。ありがとう」
「うん。デート楽しみだね」
「デートって、もう……」
 照れる勇利に、想いを隠した胸が疼く。笑って誤魔化していられるのはいつまでだろう。気付かれてはいけなかった。

 チェックアウトの時間が近付き、俺は立ち上がって部屋の隅に備え付けられたクローゼットの扉を開けた。掛けてあったコートとマフラーを勇利に手渡す。俺も手早く身支度を調え、忘れ物がないか部屋の再確認を済ませた。
 勇利に視線を向けると、探っていたコートのポケットから手袋を取り出したところだった。
「あれ?」
「どうしたの?」
「手袋、片方ない。落としちゃったのかな……」
 どうやら反対側のポケットにも入っていないらしい。今し方部屋を見渡したときも、手袋は落ちていなかった。
「リュックの中は?」
「うーん、いいや。探す時間もったいないし、帰ってからもう一回探してみる」
 勇利は手袋の行方よりも、チェックアウトの時間の方が気がかりなようだ。
 このままでは勇利の手が冷えてしまう。外を歩くのは短時間だとしても、不自由な思いはさせたくなかった。
「勇利、俺の手袋貸してあげる」
「いいよ、大丈夫。あとは帰るだけだし」
「駄目。冷えてしまうだろう?しもやけにでもなったら大変だ」
「そんなことしたら、ヴィクトルの手が冷えちゃうだろ。僕だっていやだよ」
 口を尖らせて反論する勇利にどうしたものかと思案する。勇利も俺のことを大事に想ってくれているのだと考えれば、この反応すら嬉しいものだった。しかし、これでは平行線だ。

 俺は勇利に、コートのポケットに入れていた自分の皮手袋を差し出した。
「じゃあこうしよう。改めて誕生日おめでとう、勇利。俺のお古で悪いけど、プレゼントだよ。受け取ってくれる?」
「……ヴィクトル……」
「ねえ勇利、俺が受け取ってほしいんだ。駄目かい?」
「駄目じゃ、ないけど……」
 そっと手を取り、その上に手袋を乗せて両手で包みこむ。揺れるチョコレート色の瞳が俺を見上げた。戸惑う視線を受け止め、願うように見つめる。
 勇利はしばし俺の目と重ねた手に視線を彷徨わせたあと、ふわりと目元を緩めた。どうやら俺が決して折れそうにないことを悟ってくれたらしい。差し出した手袋を受け取った勇利は、目を伏せて静かに口を開いた。
「それなら僕、プレゼントはこの手袋だけでいい。もう十分すぎるよ」
「分かった。でもデートはしてくれると嬉しいな。コートはまた今度ね」
「ふふ、……うん。ありがと」
 ようやく笑ってくれた勇利に、ほっと安堵の息を吐く。

「ヴィクトル、左手貸して?」
 不思議に思いながらも言われるがままに差し出すと、勇利は渡したばかりの手袋を俺の左手にはめた。
「手袋。片方は僕のがあるから、片方はヴィクトルが着けてて。もう僕の手袋なんだから、良いでしょ?」
「あ、ああ……」
 俺のあげた手袋は、勇利の右手と俺の左手に。片側だけ残ってしまった手袋は、勇利の左手に。
 余ったのは俺の右手だった。ちぐはぐの手をいくら眺めても意図は掴めそうにない。その間も勇利は顔を上げようとしなかった。
「勇利?」
「僕の手袋だと、ヴィクトルには小さいでしょ?だから、その……」
 勇利は言い淀んで深く俯いた。まだ室内なのに、マフラーから覗いた耳が寒さで凍えたように赤く染まっている。もしくは熱を持っているのかもしれない。

 手袋を着けた左手が、手袋のない俺の手を握った。勇利がゆっくりと顔を上げる。耳と同じく顔まで真っ赤に染め上げた勇利が、俺の瞳を捉えて放さない。
「これで、寒くないよ」
 震える声が耳に響く。現実だと信じられず、心臓が早鐘を打っていた。
 勇利にもし、好きだと伝えたら。
「行こう、勇利」
 黙って頷いたのを確認し、繋いだ手ごとコートのポケットに招き入れた。

 ホテルの部屋を出ても、手を離すことはしなかった。勇利もまた、人前に出ても振り払うことはなかった。決してこの手を離してはいけないと本能が告げている。
 寒さで凍えるどころか、俺の手はずっと熱を帯びたままだった。

 

2023年11月29日