やがて砂糖水

 僕は今、生まれて初めて壁ドンをされている。身長差も体格差もあるせいで迫力は十分だったけど、何よりも僕は彼の表情に動揺を隠せず、言葉を失っていた。
 だって、ヴィクトルのこんな表情は見たことがなかったから。確かテレビで見た壁ドンはときめきを感じるものではなかっただろうか。刺激の強い眼光に曝されたせいで、ときめきよりも胸がヒリヒリする。ヴィクトルは両手を壁に押し付け、逃げられないように僕を閉じ込めた。
「……さっきの男、誰?」
 互いの吐息が感じられる程の距離で、普段よりも大分低い、不機嫌を露わにした声が僕に尋ねた。

 先程突然話し掛けてきた男のことを、僕もよく知らなかった。ただ、何度か見掛けたことはあるからクラブの関係者なのだろう。リンクに入れる者はある程度限られているし、怪しい人間ではないと判断した僕は、ロシア語を上達させる為のちょうど良い機会だと思った。
 ヴィクトルはロシア語を使うとき、僕に伝わるよう細かいニュアンスまで話してくれるけど、他の人はそうじゃない。気軽に投げ掛けられたロシア語を聞き取ろうと、何度か聞き返すこともしながらしばらく会話を続けた。内容はなんてこと無い、ただの雑談だ。
 すると向こうから次第に距離を詰めて来て、やがて僕の肩を抱こうと男の腕が伸びた。正直なところスキンシップをあまり好まない僕がその腕をやんわり躱す前に現れたのが、美しい顔に氷の笑みを貼り付けたヴィクトルだった。

 素早く僕を引き寄せていつもの腕の中に納めたヴィクトルは、男に一言二言告げた後、誰もいないこの場所へと連れて来た。ここはミーティングルームである。
「……知らない」
 嘘は言っていない。実際よく知らないし。
「あいつ、絶対勇利に気があるんだ。油断したらいけないよ」
「そんな訳ないだろ。大袈裟だってば」
「勇利も楽しそうに喋ってたじゃないか」
「普通だよ。僕そんなに楽しそうだった?」
「だって勇利、可愛い顔して笑ってた」
 見惚れちゃうくらい可愛かった。そう不満げに呟かれた言葉と表情は僕に対して効果が抜群で、顔だけでなく首筋まで熱くさせた。それはただの言い掛かりに不機嫌になりかけていた僕の気分を、一気に浮上させるものだった。

 彼の言う「可愛い」には僕への好きの気持ちが含まれている。男の僕に、ではない。僕だから可愛いのだと。言葉を、肌を重ねながら飽きもせずに何度も教えてくれた。そうして繰り返される愛の手ほどきに、いつの間にか僕はヴィクトルに可愛いと言われるのが好きになってしまった。
 言葉ひとつで僕を幸せな気持ちにさせてくれる。それはヴィクトルだけが使える魔法だった。眉を寄せ、美しい顔を歪めるヴィクトルに心が震える。

「僕、可愛かった?」
「可愛い。俺以外にそんな可愛い顔見せないで」
 こわばった表情と縋るような声に胸が苦しくなる。今までもこれから先も、僕はずっとヴィクトルしか見ていないのに。
 向けられた熱心な視線に、金縛りにでも遭ったかのように動けなくなってしまう。目を逸らすことも出来ず、声も出せない。必然的にしばし無言で見つめ合う。青いソーダ色の瞳には今、僕だけが映っていた。

 普段は気さくでおおらかで余裕の表情を崩さない彼が、必死な顔をしている。熱を帯びた瞳も、眉間に寄せた皺さえも愛おしい。まだ見たことのないヴィクトルをもっと見たい。僕しか見られないヴィクトルの顔が嬉しかった。
 金縛りが解け、僕は目の前の身体にぎゅっと抱き付いて至近距離をゼロに変えた。
「ヴィクトルがそんなに必死なところ、初めて見た。可愛い」
 見上げたヴィクトルは幾度かのまばたきの後、少しだけ唇を尖らせて拗ねる素振りをした。
「見せるのは、勇利にだけだよ」
「うん、僕だけにしてね」

 ようやく触れ合った唇の交わりが、少しずつ深くなる。ざらついた舌同士が擦れ合ってひどく気持ちが良かった。そろそろ止めないと後戻りが出来なくなりそうだ。だけど抱き締める体温と嗅ぎなれた香りがしゅわしゅわと心地よく胸をくすぐるから、僕は目を瞑ってもう少しだけ味わうことに決めた。
 強かった刺激は空気に解けて、今は甘さばかりが残っていた。

2023年10月29日