ね?あとでなんて、待てないだろう?

 リンクからの帰り道、僕達は今までに何度もした問答を懲りずに繰り返していた。
「だから駄目だって言っただろ!」
「駄目じゃないだろう? 勇利は俺とキスしたくないの?」
「そうじゃないってば! 人のいるときは駄目ってだけで、したくない訳じゃ……」
「さっきだってバッサリ断ったじゃないか。しかも勇利すごく怒るし」
 僕への不満を言いながらも、ヴィクトルが玄関のドアを開け、僕を先に家の中へと入れてくれる。続いて入ってきたヴィクトルの背後で、オートロックが閉まる音がした。

 ヴィクトルが人前でもキスをしようとするから、僕は怒る。
 抗議しても毎回丸め込まれてしまうのがいけない。今度こそ心を強く保たなくては。
「ごめんって、恥ずかしいんだよ。僕がああいう反応しか出来ないって知ってるだろ?」
「分かってる。でも俺だって断られるのは悲しい。恋人にはいつでもキスしたいのに」
 そう唇を尖らせて俯く顔は、美術館に飾られている彫刻のように綺麗だった。そんな顔をするのはずるい。言うことをなんでも聞いてあげたくなってしまう。愁いを帯びた眼差しに胸が締め付けられるのは、僕がヴィクトルを好きだからだ。もし他の人が相手ならこんな気持ちにはならない。分かって欲しくて、縋るようにヴィクトルを見上げた。
「僕、ああいうときどうしたら良いか分からないよ。困るんだ。ヴィクトルみたいにスマートに出来ないし」
「じゃあ、合図を決めようか」
「合図?」
 そう、と言いながらヴィクトルは僕の耳朶に触れた。親指と人差し指でふにふにと揉まれ、優しく引っ張られる。
「俺と勇利にしか分からない、あとでね、って合図。勇利が困ることを俺が言ったら、この合図で窘めて。勇利も俺と同じ気持ちだって教えてくれる?」
「……ん、分かった」
 ヴィクトルの耳朶を揉むのかと思って真似をすると、抱擁と苦笑が返ってきた。
「自分の耳を、だよ。俺のでも良いけど、それこそ勇利は人前じゃ恥ずかしくて出来ないだろう?」
 僕はハッとして何度も首を縦に振った。多分、今ので耳まで赤くなったと思う。僕の耳朶を弄っていた手が後頭部へと回り、微笑むヴィクトルの顔が近付いてくる。家では僕達を見る人がいないから、今は誰の目も気にせず唇を重ねた。

 この話をしてから暫くは、僕が困るようなヴィクトルの行動は鳴りを潜めていた。合図なんてなくても大丈夫じゃないかと思うくらいに。
 そして、合図の話も忘れかけた頃のこと。その日は朝からヴィクトルに練習を見てもらえる日で、休憩中のことだった。僕がトイレを済ませて戻ると、ヴィクトルはリンクメイトに囲まれて話をしていた。チムピオーンではいつものことで、至って普通の日常だ。
 たったこれだけでヴィクトルを遠くに感じて寂しいなんて、我ながら贅沢になったと思う。休憩が終わればまた僕を見てくれるのに。なんとなく近付けずにいると、視線に気付いたヴィクトルが指先で耳朶に触れた。あとでね、の合図だ。

 それを見た瞬間、心がざわついた。
 休憩が終わるまでまだ時間はある。でも、ヴィクトルが僕以外の誰かを優先していると思うと耐えられなかった。
「ヴィクトル、ヤコフコーチが呼んでたよ!」
 咄嗟に口から飛び出た嘘を吐いて輪の中に入り、急かすようにヴィクトルの腕を両手で引っ張る。
「そう? 何かあったかな」
 じゃあ、とその場にいた人達に手を振るヴィクトルと一緒に、僕は再びリンクサイドを後にした。

「ヤコフはここにいるのかい?」
 誰の気配もない更衣室を見回して、ヴィクトルが聞いてくる。わざとらしい態度に、僕は自分でも分かるくらい不機嫌な顔になっていた。なんだよ。分かってるくせに。
 掴んだままだった腕にぎゅうと力を強めると、痛いよ勇利、という気の抜けた声が聞こえた。
「困ったな。全く、勇利は本当に俺のことが好きなんだから」
 顔を上げてヴィクトルをじっと睨んだ。嬉しそうににやけちゃって、困ったなんて嘘だ。全然説得力ないんだからね、その顔!

 結局我慢出来なかったのは僕も同じで、もう一秒だって待てなかった。僕は思いきり抱きつき、あとになんて出来なかったキスをヴィクトルに押し付けた。

2023年10月29日