花言葉は、

 帰りが遅くなる日は、ささやかな贈り物を買って帰るようになった。
 色とりどりの花束、人気店のスイーツ、ほんの少しの下心を忍ばせたワイン。差し出されたものに目を丸くしたあと、表情を緩めてふわりと笑う勇利は胸が苦しくなるほどに愛おしい。どれだけ疲れていても、おかえりなさいと迎えてくれる笑顔を見れば一日の疲れなど飛んでいってしまう。
 知らなかったのだ。勇利が帰りを待っていてくれることが、こんなにも幸せだなんて。

 予定よりも早く仕事を終えた俺は、リンクに寄って練習後の勇利を車に乗せて帰ろうと、もうすっかり覚えてしまった電話番号をスマートフォンの履歴から呼び出した。
 電話越しの愛しい声は早く会って抱き締めたい想いを更に募らせ、俺の喋りを少し早口にさせる。それなのに肝心の勇利と来たら、帰るのはきっと自分の方が早いからと俺の誘いを断り、挙句「朝食用のパンがなかったから買って帰るね」と早々に通話を切り上げてしまった。
 通話時間が表示された画面を未練がましく見つめても、勇利からの着信は期待出来そうにない。ならば早く帰宅してその分長く勇利と一緒に過ごそう。そう思い直した俺は、一刻も早く帰るべく乗り慣れた車のアクセルを強く踏み込んだ。

 結果として、玄関で帰りを待っていてくれたのはマッカチンだけだった。じゃれつき存分に甘えてくる家族を伴いリビングへ向かったものの、勇利が帰宅した気配はない。
 やっぱり迎えに行けば良かった。しかし、今から行っても入れ違いになってしまうだろう。俺はソファに腰を下ろし、深いため息を吐き出した。
「勇利早く帰ってこないかな。ねえ、マッカチン?」
 問いかけに小さな返事をくれたモカ色の家族も何処か寂しげだ。朝もそばにいたはずなのに、たった数時間離れただけで心にぽっかりと穴が空いたように感じるのは何故だろうか。ふわふわの毛並みを撫で、一人と一匹で寂しさを慰めあう。

 部屋はやけに静かで、以前は随分音のない暮らしをしていたのだと改めて気付かされる。勇利との出会いで閉じていた世界は開かれ、俺の周囲は一変した。今まで見慣れていたものが全て新鮮に映る。いつの間にか俺の心に深く入り込んだ勇利の存在が、日を追うごとに大きくなっていく。
 勇利が家で待っている、それだけで何があっても大丈夫だと思えた。願わくは勇利の帰る場所も、俺の元であってほしい。

 静寂に包まれた世界に、ドアを開ける音と「ただいま」という待ち侘びた声が響いた。マッカチンが素早く反応し玄関へと走り出す。
 急いで追いかけると、勇利がしゃがみこんでマッカチンの熱烈な出迎えを受けていた。
「勇利! おかえり!」
「……あ、ただいま……」
 一呼吸遅れた声に疑問を抱くと、勇利が何処か驚いたような表情で俺を見上げていた。勇利の目線の高さに合わせて膝を折り、チョコレート色の瞳を覗き込む。
「どうかした?」
「……ううん。ヴィクトルも、いつもこんな感じなのかなって」
 要領を得ない返事をしながら、愛しい恋人は照れくさそうに目を伏せた。

 早く抱き締めたい想いと、考えていることは全て話してほしい想いとが葛藤したのは一瞬だった。勇利の話はタイミングを逃すと聞き出せなくなってしまう恐れがあるから、俺は慎重に言葉の続きを待つ。
「あのさ、……出迎えて貰えるのって、嬉しいんだね」
「そうだよ、勇利の『おかえり』に元気を貰ってるんだ。マッカチンにもね」
「うん、なんか、分かったかも。ヴィクトルがいつも『俺の気持ちだよ』って言って、買ってくる理由も。……はい、受け取ってくれる?」
 はにかみながら勇利が差し出したのは、一輪の薔薇だった。
 赤の鮮やかさに目を瞠る。震える手で、落とさないようにそっと受け取った。薔薇を包むフィルムの乾いた音が玄関に響く。顔を寄せると瑞々しい香りが鼻孔をくすぐった。初めてのことだった。勇利が俺に、花を。
「ありがとう、勇利……」
「毎回貰ってばかりだし、気にしなくて良いのにって思ってたんだ。でも、おかえりって言ってもらえるの、嬉しかったから。ヴィクトルが色々買って帰ってきちゃう気持ち、今やっと分かった」

 えへへ、と気恥ずかしげに笑う勇利に、胸の奥がじわりと熱をもつ。花弁の色が移ったかのように、俺と勇利の頬が赤く染まっていた。
「俺もだよ。いつも待っていてくれてありがとう」
「ごめんね、僕の方が早く帰るって言ったのに、何にしようか選んでたら遅くなっちゃった」
 花言葉とか、僕詳しくないし。そう小さく続いた言葉に、店先で俺のことを考えて花を選ぶ勇利の姿が思い浮かんだ。
 帰りが遅かった理由も分かり、大人しく待っていて良かったと胸を撫で下ろす。もし迎えに行っていたら、勇利の行動を無下にしていたことだろう。

 飽きもせずに見つめ合っていると、突然右肩に重みがのしかかった。
 驚いて横を向けば、マッカチンが俺達の肩に器用に前脚を乗せている。いつまでも動かない俺達にいい加減待ちくたびれたのだろう。
「ごめんマッカチン、待たせちゃったね。勇利、中に入ろう」
 勇利の手を引き、二人で立ち上がる。
 歩きはじめたマッカチンの揺れる尻尾を見送り、俺は後に続こうとする勇利を引き寄せた。待ち焦がれていたぬくもりをきつく抱き締めると、勇利も腕を回して応えてくれる。どうしようもなく幸せで、つやつやとした黒髪に顔を埋めて喜びを噛み締めた。

 耳元に唇を寄せて囁く。すると愛らしい薔薇がもう一輪、俺の腕の中で花開いた。

2023年10月29日