月は夜の夢を見る

 いくら恋人とはいえ、相手が何を思っているのかまでは分からない。だからこそ知ることが出来たときの喜びは格別だ。
 君のことなら、なんだって知りたいから。

 今日で続いていた仕事も一段落し、俺は家路を急いでいた。
 最近は二人の時間が合わず、俺が家を出る朝も帰宅した夜も、勇利は夢の中にいることが多かった。可愛い寝顔は堪能していたけど、やっぱり起きている勇利と顔を合わせて今日の出来事や何気ない話をたくさんしたい。
 明日は久しぶりに勇利と一緒に過ごせる。二人で何をしようか。家で帰りを待つ勇利の顔を思い浮かべながら、俺は玄関の扉を開けた。
「ただいま」
「おかえり、ヴィクトル!」
 リビングに繋がるドアから、愛しい恋人がひょこりと顔を覗かせる。パタパタと駆け寄ってくる姿に頬が緩んだ。
「出迎えありがとう、勇利」
「大袈裟だよ。ちょっと出てきただけなのに、お礼なんて」
「嬉しいんだ。帰ってきたって思える。勇利のいるところが俺の帰る場所だからね」
「……うん。おかえりなさい」
 ずっと焦がれていた飴色の瞳を見つめ、俺は照れる勇利を腕の中に閉じ込めた。額から頬、眼鏡をずらしてこめかみと瞼、鼻先を通って反対の頬、そして唇へ。
 キスをしたい場所に際限はなく、まだ続けようとした所で勇利から頬へのキスという可愛らしい反撃を受けた。頬に触れた熱が胸の奥をじんわりとあたためる。キスひとつで浮かれてしまうほどに俺の心は単純で、勇利へと向ける感情は重かった。勇利を抱き締める腕に、無意識に力が籠もる。
 そんな俺の様子を気にするでもなく、勇利が口を開いた。
「ねえヴィクトル、何かしてほしいことある?」
「してほしいこと?」
「そう。最近ずっと忙しかったでしょ? 僕に何か出来ることないかなって」
 どうやら最近仕事に追われてばかりだった俺を、労ろうとしてくれているらしい。その気持ちだけで疲れなど吹き飛んでしまうというのに。勇利がそばにいてくれればそれだけで十分だ。
 だけどせっかくお願いごとを聞いてもらえるなら、と頭を働かせる。勇利からの愛情を充電したい。長い年数を使い続けたスマートフォンみたいに、勇利から離れてしまうとバッテリーがすぐに減ってしまうのだ。
「とりあえずお茶淹れるね。あとでお風呂で髪洗ってあげるし、寝るときも腕枕してあげる」
 勇利の発した言葉が、真剣に考えはじめた俺の思考を止めた。
 俺は世話を焼きたくて、二人で一緒に入浴するときはよく勇利の髪を洗っている。お返しに洗ってもらうこともあるけど、自分から進んで言ってくることは珍しい。腕枕に至っては、することはあってもされたことはまだ一度もない。一体どうしたのだろう。
 得意気な笑みに気を取られ、閉じ込めていた腕の中からするりと抜け出されてしまった。勇利は俺が戸惑っていることにも気付いていないようだ。
 ヴィクトルは手を洗ってから来てね、とだけ告げて先に戻っていく恋人を見送り、取り残された俺はひとまず言われた通りにしてからリビングへと向かった。

 リビングの片隅ではお気に入りのブランケットに包まってマッカチンが眠っていた。ふわりと心が軽くなり、自然と口角が上がる。
 屈み込み、起こさないように柔らかな毛並みを一撫でする。最近まともに遊べていなかったから、起きたらたくさん構ってあげたい。
「マッカチン、最近ヴィクトルがいなくて寂しがってたよ」
 後ろから小さく声が掛かった。振り向くとマグカップを両手に持った勇利がソファの横に立っている。俺は立ち上がってそばに寄り、差し出されたマグカップをひとつ受け取った。透き通った紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとう」
「うん」
「明日はマッカチンと一緒に散歩に行こうね。……勇利は? 寂しくなかった?」
 並んでソファに腰掛ける。
 一口味わい、ほっと息を吐く。まろやかな味と香りが疲労の溜まった身体を癒やしてくれるようだ。
 俺とは対象的に、マグカップを両手で包み込んだまま固まってしまった勇利の顔を覗き込む。まだ口もつけていないのに、その頬にはほんのりと赤みが差していた。
「さ、寂しかったよ……」
 俯いてぽつりと漏らした声に、頬が緩んでいくのを抑えられない。素直な気持ちを聞けて嬉しくない訳がない。そしてもうひとつ勇利の考えていることを知りたくて、俺は問いかけた。
「さっき勇利が言ってたこと、今日は全部してくれるのかい?」
「ん? うん、良いよ」
「それって、勇利も俺にされて嬉しいってこと?」
「……!」
 勇利の顔が真っ赤に染まった。見開いた飴色の瞳が潤んでいる。動揺している手からマグカップを取り上げ、自身のものと合わせてテーブルに避難させた。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。
「勇利?」
「……もう! そうだけど!? い、いらないって言うならやらないからね!?」
「いる! いるよ! 俺も嬉しい!」
 なんて愛おしいんだろう。逃げてしまわないよう、腕の中にぎゅっと抱き締める。ジタバタと暴れられたけど、本気ではないことくらい分かっていた。最終的に腕を俺の背に回して抱き返してきたことが何よりの証拠だ。
 顔を上げた勇利から青いフレームの眼鏡を取り上げ、テーブルに置く。眼鏡越しだった瞳と今度は直接見つめ合った。
 淹れてくれた紅茶が冷めてしまうまで、俺達は離れていた時間を埋めるように口付けを交わした。

 

 宣言通り、バスタブに浸かる俺の背後に椅子を用意して、勇利が髪を洗ってくれた。
 俺も勇利の髪を洗いたかったと口を尖らせれば、仕方ないなと言いたげに勇利が笑う。
「そう言うと思ったから、先に入っておいたんだよ。僕の髪まで洗ってたら疲れちゃうでしょ?」
「疲れないよ。俺の癒やしなんだ。明日は一緒に入ろうね」
「……考えとく」
 可愛いくせに可愛くないことを言うから、首を伸ばして背後にいる勇利に泡だらけの頭をぐりぐりと押し付けてやった。
「あっ! ちょっとヴィクトル!?」
 振り返れば、ちょうどお腹の辺りに当たったらしい。寝間着代わりのTシャツは泡で濡れ、色が濃く変わっていた。
「泡付いちゃったね。ほら、一緒に入ろう」
 上機嫌で勇利の腕を引く。普段なら怒りそうだけど、今日はきっと受け入れてもらえる予感がした。
「もー……」
「これは予想できなかった?」
「……ちょっとあるかも、とは思ってた」
 むう、と頬を膨らませる表情はあどけない。予想してたんだ。バスルームに俺の笑い声が反響し、つられて勇利もくすくすと笑う。
「ごめんね、俺の我儘聞いてくれる?」
「今日だけだからね」
 髪を洗い終えた勇利は潔く服を脱ぎ捨て、バスタブに入ってきてくれた。
 勇利は基本的に俺に甘すぎるのだ。許されて心が軽くなっていく。もう、どうやっても手放すことなど出来ない。
 抱き締めた腕にしなやかな手が触れる。照れたように笑う勇利が眩しくて、俺は手のひらを重ね合わせてぎゅっと握った。

 

 お風呂上がりに髪を乾かす手付きはよく見知ったもので、くすぐったい気持ちにさせられた。勇利の中に俺が生きている。もしかしたら俺にも、無意識に勇利に似てきたところがあるのかもしれない。聞けば教えてくれるだろうか。
 二人で寝室のベッドに横になり、伸ばされた勇利の腕に頭を預けた。腕枕をされるのは初めてだ。
「重くない? 勇利」
「大丈夫だよ。……僕、初めて腕枕した」
「俺以外にしちゃ駄目だよ?」
「もう、する訳ないだろ」
 唇を尖らせる勇利が可愛くて、吐息の触れ合う距離から更に近付き、その距離をゼロにした。
「いつもと逆だと、なんか変な感じするね」
「今日は勇利に甘やかされてるな、俺」
「僕も、いつもヴィクトルに甘やかされてるんだよ」
 恥ずかしそうに笑う表情に胸がときめく。いつだって俺は勇利を構いたくて仕方がないのだ。
「嬉しい?」
「ヴィクトルの意地悪!」
 俺の意図を察した勇利がそっぽを向こうとして、腕が下敷きにされているせいで身体を動かせないことに気付いた。逃げられないのはもう分かっている。それでも離れないように、俺は自由な腕でその身体を抱き締めた。
「残念、動けないね」
 諦めたらしい勇利が小さく息を吐く。そこに浮かぶ表情は呆れではなく、慈愛に満ちたものだった。
「……ヴィクトルも嬉しい?」
「うん、嬉しいよ。ありがとう、勇利」
「僕も……。いつもありがとう」
 ベッドの中は二人分の体温であたたかい。勇利が胸の内を教えてくれたことに心が満たされていく。安心したせいか、瞼がだんだんと重くなってきた。どうやら今日は勇利の寝顔を見られそうにない。
 ゆっくりと呼吸が深くなる。瞼が閉じる直前、柔らかく弧を描く勇利の唇が見えた。
「おやすみなさい、ヴィクトル」
 甘い声が、耳を通して心の奥に柔らかく響いた。

2024年7月30日