揺りかごは朝を待つ

 僕の心の拠り所は、きっと昔から変わっていない。
 だけど遠い存在だったその人が今では僕の最も身近な存在になってしまったことは、余りにも大きすぎる変化だった。それから、その立ち位置についても。

 今日はスケート雑誌のインタビューと撮影があり、一日を慣れないスタジオで過ごした。
 何度か取材を受けたことのあるインタビュアーだったお陰で、話がしやすかったことだけが救いだ。カメラの前では、どうしてもぎこちない顔になってしまう。この場にヴィクトルがいてくれたら良かったのに。今回は僕一人への取材だから、いる訳がないのだけど。頼りにしすぎてしまっている自分に苦笑する。
 頼ることは弱いことではないと教えてくれた人がいる。一番強くて格好良くて、誰よりも優しい人。玄関で僕を見送ってくれたあの柔らかな笑顔に早く会いたかった。

 

 結局、帰宅できたのは二十時を過ぎた頃だった。家に近づくにつれ、自然と急ぎ足になっていたのは仕方のないことだ。出掛けるときと同じあたたかなハグとキスは、今朝と違ってお風呂上がりの香りがした。
 僕もお風呂を済ませてリビングに戻ると、キッチンにいたヴィクトルがミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から出してくれた。
「はい、勇利」
「ありがとうヴィクトル」
 火照った身体にミネラルウォーターが隅々まで染み渡っていく。冷えたボトルが心地よくて頬に押し当てた。僕の体温を吸って、すぐにぬるくなってしまいそうだ。
 瞼を閉じて一息吐くと、ヴィクトルの腕の中に閉じ込められてしまった。僕を甘やかす声色が心の奥深くに染みていく。
「疲れた顔してるね、今日はもう寝ようか」
 ヴィクトルが僕を抱き締めたまま、あやすようにゆらゆらと揺れる。肌触りの良いルームウェアを通して、心が求めていた唯一の体温を感じた。お風呂は済ませたのに眠るときにすぐ脱げるガウンを着ていないということは、ヴィクトルはまだ寝ないのかもしれない。
 僕だけ先に寝るのやだな。今夜はずっとそばにいてほしい。もう一秒だって離れたくない。僕の心はたったひとつだ。だけど素直に伝える恥ずかしさに逡巡して、口から零れる言葉は捻くれてしまう。
「眠くない」
「こら、嘘つかないの。こんなにあったかいのに」
 緩かった腕に力が込められる気配がして、僕は居心地の良い腕の拘束から逃れた。
「お風呂上がりだからだよ。眠くない」
「どうしたの、今夜は強情だね」
「……強情なの、いや?」
 ボトルを握る手が強張った。
 油断をすると不安はすぐにやって来る。我儘を言って呆れられるのも避けたかった。今の僕は、ヴィクトルという水分が足りずにすっかり乾いてしまった花だった。満たされないなら、あとは枯れてしまうだけだ。
 思っていることをありのまま伝えられたら良かったのに。後悔が胸に詰まって呼吸が浅くなり、もう片方の手のひらで胸を押さえる。

 恐る恐るヴィクトルを上目で窺うと、僕の想像とは裏腹に負の感情など何一つ浮かんでいない表情で微笑んでいた。
「いやじゃないよ。勇利のこと、いやになるなんてあり得ない。どんな勇利だって愛してる。でも、どうしたのかなとは思うよ。何かあったのかい?」
 ふるふると首を振る。優しすぎる声は、僕の胸に詰まった後悔を解いて溶かしてくれた。代わりにヴィクトルから向けられた愛情が流れ込んでくる。
 ただ素直に言えないだけの僕の気持ちを分かってほしい。今日一日ヴィクトルがそばにいなくて、足りなくて。補給したいだけなのだ。
 未だ素直になれない僕に、ヴィクトルは続けた。
「ねえ勇利。俺の可愛い恋人が慣れない仕事で疲れてるみたいだから、今日は早く休ませてあげたいんだ。勇利はどうしたらベッドに行ってくれると思う?」
 ヴィクトルは僕が手にしていたボトルを取り上げ、テーブルに置いた。少し冷えた手のひらが、あたたかくて大きな手のひらに捕まる。
 十分すぎるほどの愛情が僕の胸を満たしていく。甘やかされて心地良いと思ってしまうのはヴィクトルのせいだ。
 萎れていた花が、栄養を蓄えて再び顔を上げる。僕はようやく自分の心に正直になった。
「……一緒に寝てくれる?」
「もちろんだよ」
「ヴィクトル……」
 微笑んだ顔に心が浮き立ち、腕を伸ばしてぎゅうっとヴィクトルに抱きつく。抱き返す力は僕よりも強く、それでも優しさの籠ったものだった。
「寝ようか、勇利」
「うん……」
 手を引かれ寝室へと向かう。繋いだ手をほんの少しだけ強く握れば、こめかみに軽い口付けが落とされる。ヴィクトルが僕を喜ばせることばかりするから、僕の心は羽をつけて空高く飛んでいってしまいそうだった。

 

 今日は裸で寝ないらしく、一緒にベッドに入った僕はヴィクトルの着ているルームウェアをペタペタと触った。僕を抱き込んだヴィクトルが不思議そうに声を上げる。
「勇利?」
「いつものガウンじゃないから、どうしたのかなって」
 ヴィクトルは合点がいったようにくすりと笑い、柔らかな吐息が僕の唇に触れた。
「ああ、だって脱いじゃうと、勇利のことも脱がしたくなっちゃうからね」
「……しないの?」
「誘惑しないの。疲れてるんだろう? 今日はもう寝なさい」
 しっとりと唇が合わさり、甘やかす声が眠りを誘う。瞼が重くてもう開けていられない。けれど間接照明だけを灯した部屋でも宝石みたいに輝く蒼い瞳は、僕を優しく見つめてくれているはずだった。
「ん、……じゃあヴィクトル、明日の朝、ね……」
 ぽつりと漏らした言葉のあと、すぐそばで息を呑む音がした。何か変なことを言ってしまっただろうか。
 高い体温に包まれ、一日中気を張っていた身体と心から力が抜けていく。嗅ぎ慣れた香りを吸い込むように大きく息をすると、多幸感が胸いっぱいに広がった。
 僕を抱き締める力の強さに心が震える。まさかヴィクトルの腕の中で眠る日が来るとは思ってもみなかった。しかも今となってはここが一番安心できる場所だなんて、昔の自分に言っても信じないだろう。この先もヴィクトルの隣で眠るのは僕だけでありますように。こんな我儘を願ってしまうほど、僕も変わったのだ。恐らく、良い方向に。だけど心の中の一番奥にはいつもヴィクトルがいて、それだけは変わらなかった。多分きっと、これからも。

 僕の心の声にヴィクトルが応えてくれた奇跡を何と言い表そう。伝える言葉を探す内に僕は、揺りかごに導かれて夢の世界へと入っていった。
 眠る前に言ってしまった素直すぎる一言への熱烈な応えが、翌朝ヴィクトルから返ってくるとも知らずに。

2024年6月30日