早く君を愛せますように

 一日の終わりには、隣で眠りに就くぬくもりにおやすみのキスを贈りたい。どうか夢でも会えますように。
 目覚めた朝には、寝惚けた可愛い顔におはようのキスを。今日も君に、良いことがありますように。
 いつだって愛を込めて。

「勇利におやすみのキスをしないと安心して眠れない……」
「ヴィクトルのキスがなくても、僕は眠れるよ?」
「勇利!?なんてこと言うんだ!俺は勇利にいつだってキスしたいよ!!」
 思わず勇利の両手をぎゅっと掴み、必死になって訴える。ふっくらとした唇に口付け、抱き締めたあたたかな身体と鼓動を感じながら眠ることが俺の毎晩の幸せだと言うのに。
 普段からどれだけ勇利との触れ合いを必要としているかについて口を開こうとする前に、勇利が視線を逸らしてぽつりと呟いた。
「でも、ないと淋しいかな。……少しね」

 その言葉に、どれだけ絶望的な顔をしてしまったのだろうか。俺の表情を目にした勇利は、眉尻を下げて困ったように笑った。
「冗談だから、そんな顔しないでってば」
 我慢出来ずに目の前の身体を抱きすくめる。
「ああ、今すぐお前を愛したいよ」
「変なこと言わないでよ、もう……」
 黒髪の隙間から覗く耳が赤く染まっているのが見えた。勇利の腕が控えめに俺の背中へと回る。こんなにも可愛い恋人を一人残し、仕事の為にしばらくこの家を空けないといけないだなんて。
 準備はとっくに出来ているし、既に靴も履き終えている。あとはスーツケースを引いて玄関のドアを潜るだけだ。それなのに勇利のそばを離れるのが名残惜しくて、先程から勝敗の分かり切った小さな攻防を続けている。仕事なのだから、最終的に俺がスーツケースを引いて玄関のドアを潜ることは決定事項だ。いくら駄々をこねて勇利を困らせようとも、現実は待ってくれない。

 出来るならたっぷりと時間を掛けて愛して、彼の感じる淋しさなど、全て取り払ってやりたかった。囁く言葉や触れる指先からも愛を注ぎ、心に深く染みわたるまで。誰よりも勇利の一番近くにいるのだと安心させてやりたい。
 本当はそんなことをしなくても、勇利は自身が俺にどれだけ愛されているか分かっている。恋人同士になって幾分か経つが、最近ようやく自覚が芽生えてきたらしい。俺の愛を勇利が心から受け入れてくれた結果だ。付き合いだして間もない頃、「僕って愛されてるんだね……?」と言われたときは流石に頭を抱えたが。
 分かってはいても、俺がそうしたかった。普段なら不安を隠そうとする勇利がほんの少しだけ見せてくれた本音。
 きっと、淋しいのは俺の方だ。
 冗談にしないで、隠さずにもっと心の声を聞かせて。勇利には淋しさなんて感じてほしくないのに、俺がいないことを淋しいと思ってほしい。身勝手な思いに胸が苦しくなる。

「急いで帰ってくるからね」
「そんなに慌てなくても、ちゃんと待ってるから。大丈夫、たった四日だよ?」
 小さな子供を安心させるように、とんとん、と軽く背中を叩かれる。顔を上げると、勇利と視線が絡んだ。近かった距離が更に近付いて、ちょん、と唇同士が触れる。
「ヴィクトルが淋しくないように、おまじない」
 そう言って、へにゃりと照れた顔をした。勇利からもらえるキスはそう多くない。隠していた想いをすっかり見透かされていたようで、敵わないなと自嘲する。萎んでいた心が救い上げられ、満たされていく。抱き締める腕の力は緩めないまま、手触りの良い黒髪に頬擦りをした。俺と同じシャンプーの香りに、またひとつ安堵を覚える。
「……毎日電話するから絶対出てね」
「ふふ、どうしようかなあ?」
「出るまで掛けるから!!」
 笑みを含んだ口調から冗談だとは分かっても、これでもし本気にされたら堪ったものじゃない。俺は慌てて言い募った。

「いってらっしゃい、ヴィクトル」
「行ってきます、勇利」
 柔らかい唇へ触れるだけのキスを贈る。愛しい人の元に、少しでも早く帰れるように。
 そうして勇利はようやく、俺を見送ることに成功したのだった。

*

 ベッドのヘッドボードに背中を預けて勇利の声を聞けば、忙しさに張り詰めていた心が解れていく。
 おやすみの挨拶の前に、ちゅ、と電話越しにリップ音を鳴らした。ひぇっ、と言ういつまで経っても変わらない、色気のない反応が最早愛おしい。
「勇利もおやすみのキスして?」
「しないよ!そんな、恥ずかしいこと……ヴィクトルじゃないんだから……」
 耳に届く声がだんだん小さくなっていく。勇利の反応が可愛くて、つい困らせることを言いたくなってしまう。こんな子供のようなことをするタイプではなかったのに。
 あまりしつこくすると勇利の機嫌を損ねてしまいかねない。それは避けたくて、仕方なさそうに文句をひとつ言うだけで留めることにした。
「勇利のケチ」
 出来るだけわざとらしく聞こえるように言ってやると、きっと勇利にも伝わったのだろう。柔らかく苦笑する気配がした。
「……帰ってきたらね。おやすみなさい、ヴィクトル」
「おやすみ、勇利。また明日」
 名残惜しみながら通話を切る。途端に静かになった部屋をやけに広く感じて、人知れずため息が零れた。早く勇利に会いたい。直接声を聞いて、愛しいぬくもりを感じたい。
 俺は薬指に光る指輪へ、祈るようにそっと口付けた。

 俺への代わりに、揃いの指輪へとおやすみのキスを贈る勇利のことを、俺はまだ知らない。

2023年11月3日