手のひらの処方箋

 ヴィクトルは僕以上に、僕の体調の変化に敏感だった。
「いつもより熱い。勇利、熱があるね」
 朝食の片付けに立ち上がったところを、ヴィクトルに捕らえられた。起きたときに感じただるさは、どうやら熱のせいだったらしい。

 額に当てられた手のひらがいつもより冷たい。違う、自分の身体が熱いんだと気付いたとき、僕はふらついてヴィクトルの胸にもたれ掛かった。迷いなく背中に回された腕が僕をしっかりと受け止めてくれる。それに甘えて瞼を閉じた。そうか、熱があるんだ。
「ごめん、今日は大人しく寝るよ」
「そうだね。待ってて、体温計持ってくる」
 体温計に表示された見慣れない数字に、ヴィクトルの表情が曇った。
 思えば熱が出たのも久しぶりだ。今日がオフで良かった。朝の日課にしているランニングも、この状態では到底行けそうにない。仕方なく自分の部屋に向かおうとすると、問答無用で先ほどまで一緒に寝ていた主寝室へと押し込まれた。
 何のために僕の部屋があるのだろう。頭の片隅に浮かんだ思考も、もう上手く言葉にはならなかった。自覚すると具合が悪くなるのは本当らしい。

 指摘されるまで気付かなかった僕に呆れることなく、ヴィクトルは甲斐甲斐しいほどに世話を焼いてくれた。
 長谷津で一緒に過ごす間に知ったことだけど、彼はものすごく世話焼きだ。これを周囲に言うと、毎回全員に怪訝そうな顔をされるか軽く聞き流されてしまうから腑に落ちない。今のところ僕の意見に同意してくれるのはマッカチンだけである。
 そんなヴィクトルが家にまで呼んでくれた医者によると、たまっていた疲れが出たのだろうとの診断だった。シーズンを終えたばかりで気が緩んだのかもしれない。
 まだ完全には医者の話を聞き取れず、ヴィクトルに一部通訳を頼むと快く引き受けてくれた。彼を通し、今日は安静にして休養を取るようにとアドバイスをもらう。そこでふと、その言葉は一体どちらが言ったのだろうと考えたら笑いを堪えるのが大変だった。だって、あまりにもヴィクトルみたいなことを言うから。

 ベッドに沈むように眠った夢の中で、頬を撫でる手のひらの心地よさを感じた。息苦しかった呼吸が楽になる。僕にとってはヴィクトルの存在が何よりも良く効く薬だった。そんなこと、恥ずかしくて本人にはとても言えないけど。
 その後も深い眠りと緩い覚醒を何度か繰り返した気がする。目を覚ます度、近くに感じるヴィクトルの気配に安心して僕は名前を呼んだ。僕を呼ぶ声は、ひどく優しいものだった。

 一体どのくらい寝ていたのだろう。昼の日差しを取り込んでいた窓にはカーテンが引かれ、時間の判断は出来ない。寝ぼけた頭で起き上がれば、お腹が欲求に素直な音を鳴らした。朝よりも身体が軽い。
 固まった身体を伸ばしていると、ヴィクトルがトレイを持って入ってきた。
「起きたんだね、ちょうど良かった。具合はどう?」
「ありがと、大分楽になったよ。今何時?」
「もう夜だよ。お腹は空いてる? 夕飯にしよう」
 湯気の立つそれは、幼い頃風邪を引いた日に食べたお粥だった。ヴィクトルは本当に、いつの間に何処で聞いてくるのか。惜しみない愛情に、申し訳なさよりも嬉しさが上回る。
 食欲も出てきたことだし、恐らく一晩休めば完全に回復するだろう。そう伝えても、ヴィクトルは僕の世話を止めるつもりはないようだった。身体を清め、着替えまで手伝おうとするから流石に拒否すれば、苦笑を返される。
「今日くらい甘えてよ、勇利」
 与えられる甘さには際限がなかった。
 僕はいつだってヴィクトルに甘えてばかりなのに、これでは違う意味で熱が上がってしまう。やっぱり、ヴィクトルが世話焼きなのは僕とマッカチンだけが知っていれば良い。
「これ以上、世界中の人を恋に落とさないでほしい……」
「何の話? まだ熱が下がらないみたいだね」
 ぼんやりしていたら、思っていたことが勝手に口から出ていた。無意識って怖い。

 夕飯を食べ終え、着替えも済ませた僕にヴィクトルは布団を掛けた。僕よりも余程辛そうな顔をしている。心配性なんだ、ヴィクトルは。
「ごめん、僕がここで寝てたらヴィクトルが寝れないよね」
「良いんだよ。慣れた場所の方が落ち着いて眠れるだろう?」
「う、それは……まあ、そうかも……?」
 否定することが出来ず、返答に詰まる。
 僕の部屋のベッドは、用意されたにも関わらずほぼ使われていない。家主の意向により、この家に住み始めてからずっと。
「じゃあ、ヴィクトルは僕の部屋使ってね」
「ありがとう、そうするよ。さあ、今日はもう寝よう」
「うん……」
「どうかした? 何かしてほしいことはある?」
「あ……あの、えっと」

 どうしてだろう。こんなに気に掛けてもらっているのに、一人で眠るのが寂しいなんて。きっとヴィクトルのせいだ。いつも僕を一人で眠らせてくれないから。僕に向ける眼差しが優しすぎるから。
「……寝付くまで、そばにいてくれる?」
「勇利が起きるまでそばにいるよ。だから安心しておやすみ」
 ヴィクトルがふわりと微笑むだけで、日だまりに包まれたように胸があたたかくなる。低く心地よい声は、僕の不安をまるごと取り除いてしまう。
 骨ばった大きな手のひらが僕の髪に触れ、頬をゆっくりと撫でた。昼間見た夢の中みたいに。寂しさに縮こまってしまった心が、ぬくもりに解けていく。
「ありがと……大好き」
 僕の心が自然と口から零れた。
 長い指先が汗で張り付いた前髪をかき分け、額に柔らかな唇の感触が落とされる。
「おやすみ、勇利。愛してる」
 ヴィクトルのあたたかさと嗅ぎ慣れた香りに包まれ、そっと瞼をおろす。
 いつの間にか僕は、深い眠りに落ちていた。

 翌朝目覚めると、だるさは消えて身体もすっきりしていた。そばには、ヴィクトルがベッドの端で突っ伏して眠っている。本当にずっとそばにいてくれたんだ。
 僕ばかりベッドを使って、窮屈な眠りをさせてしまった。早く起こさないと。さらりとした銀色を撫で、謝罪と感謝を込めて口付けを落とす。
 ヴィクトルの瞼が震え、澄んだ蒼い瞳が僕を捉えた。
「おはよう、ヴィクトル」
「ん、勇利……? おはよう……ああ、大分良くなったみたいだね」
「ありがとう、もう大丈夫。ヴィクトルのお陰だよ」
「それなら、おはようのキスをしても良いかい?」
「……聞かないでよ」
 ヴィクトルが僕の手を握ったのを合図にして、瞼を閉じる。それから僕達は、唇で朝の挨拶をした。

 まだ朝を迎えたばかりだけど、早く夜にならないかな。今夜はきっと、二人並んで眠れそうだから。

2023年10月29日