サーチライトの見る夢

「最後に通したフリー、凄かった」
 勇利の口からぽつりと漏れ出た言葉に、渡されたタオルで汗を拭いながらヴィクトルは微笑んだ。まだ落ち着きを取り戻さない呼吸が、厳しい練習だったことを物語っていた。
 自身を極限まで追い込み更なる高みを目指す。やりすぎれば故障の原因になってしまいかねないから、その限界を見極めながら調整を行うのだ。
 密度の濃い練習は見ているだけで勉強になる。勇利は今、自分が贅沢すぎる環境にいることを改めて実感していた。

 ベンチに座って練習を見学していた勇利の隣に、ヴィクトルが腰を下ろす。長年多くの人々を受け止め使い込まれたベンチが、ぎしりと音を立てた。
「……あのプログラムを見せられたら、弱点なんてどこにもないって書かれるのも分かる気がする」
「ああ、この前発売された雑誌の話?」
 ピンときたらしいヴィクトルの問いに、勇利はこくりと頷く。
 それはこの国の英雄を評する記事だった。今も実際に結果を出し続けているのだから、賞賛されるのは喜ばしいことだ。けれどトップを取って当然だという書き方が、ヴィクトル自身を映していないように思えてならなかった。そのためにヴィクトルがどれだけの努力を重ねてきたのか、記者はきっと知らない。それが勇利にはひどくもどかしかった。努力は他人に見せるようなものでもないと、分かってはいても。

 ベンチに置いていたドリンクボトルをヴィクトルが手に取る。上下する白い喉仏を、チョコレート色の瞳がじっと見つめていた。
 唯一の愛弟子であり、更に自身のファンでもある勇利のもの言いたげな視線に、ヴィクトルが気付かないはずがない。誰よりも大事な恋人が自分を想ってくれている姿に、濡れた唇がゆるく弧を描いた。
「そうだな、……俺の弱点は勇利だよ」
 ヴィクトルの唇から零れた思いがけない言葉に、勇利は目を見開く。
 一般的に弱点と言えばフィジカルやメンタル、周囲からの期待という名の重圧、他にも数え切れないほどあるだろう。その中に自分の存在が挙がるのかと、勇利は戸惑った。しかし、勇利を見るヴィクトルの表情は穏やかだ。
「本当の話だ。何も出来なくなる」
「……そんなこと、」
「勇利がそばにいないとさみしくて仕方ないし、勇利に何かあったらきっと俺の心臓は止まってしまう」
 ヴィクトルが勇利の手を取り、自らの胸にあてた。汗を吸った練習着の下に厚い胸板を感じる。確かな心音が手のひらを通して勇利へと伝わってきた。
「喧嘩しても勇利のことが気になって眠れないし、勇利に好きだって言われたら胸がいっぱいで泣きそうになるんだ」
 やっぱり、喧嘩したからって別々の部屋で寝るのは止めにしない? 風邪を引いたときだけにしようよ。
 お願いごとをするように甘えた声が勇利の耳をくすぐる。小首を傾げる姿に、勇利はいつも弱かった。

 喧嘩をしたときに意地を張ってしまうのは二人の悪い癖だ。しかも幸か不幸か回数が多くないせいで、折れるタイミングが分からない。仲直りのきっかけを探すのに毎回苦労しているのはお互い様で、勇利にとってもこの提案に乗るのは悪い話ではなかった。
 吸い込まれそうなほどに蒼く澄んだ瞳は、勇利が嫌がっていないかを確かめようとしていた。本当に嫌がる素振りを見せれば、ヴィクトルは勇利の意志を尊重してくれる。だからこそ、どうしても譲れないことでない限り、勇利はヴィクトルのお願いなら聞いてもいいと思っていた。
 僕もそれがいい、と返せば、ヴィクトルの表情に安堵の色が浮かんだ。

 勇利は目を伏せて、心音を聞いていた手を胸元から離した。手のひらに残る温もりを、もう片方で閉じ込めるように包む。
「……僕、ヴィクトルの弱点になりたくないな」
「だけど、勇利は俺の強みでもあるよ」
 耳に届いた静かな声に、勇利は再度ヴィクトルへと視線を合わせた。
「勇利と一緒なら、それだけでなんでも出来る気がするんだ」
「ヴィクトル……」
 見上げた蒼い瞳の奥に、未来への希望が映っている。勇利を導く強い光がそこにはあった。

「勇利は違う? そうじゃない?」
 確信を持って放たれた言葉に、勇利は目が覚めたような思いがした。
 勇利にしてみれば自分の方が弱点ばかりだ。だけどヴィクトルがいてくれたから、ここまで強くなれた。
 ヴィクトルがいるから今この場所にいる。互いに目指すものがある。まだ一人で滑り続けていたとしたら今頃、どんな想いでスケートと向き合っていただろう。
 そう思い至ったところで、ようやく勇利は笑みを返すことが出来た。
「うん、僕も同じだよ、ヴィクトル」
 隣に並んで歩く人がいる。それがどれほどの力になるのか、勇利はもう分かっていた。
 そして隣を歩むのが一生を共にしたい、捧げたい相手であることを幸福に思う。
 胸に広がるあたたかさに気付いたとき、勇利の中にあった戸惑いはすっかり消えてしまった。
「僕、ずっとヴィクトルのそばにいたいな」
「安心して良いよ。俺が勇利を離す訳ないだろう」
「うん、離さないでいてね」

 クールダウン手伝うよ、マイコーチ。立ち上がり、勇利は右手を差し出す。ヴィクトルが勇利を眩しそうに見上げ、しっかりとその手を握った。

 もう一人で夢を見られないのは、勇利もまた同じだった。

2023年10月29日