君に言えないことがある

 楽しみにしていた予定をキャンセルしなければならないのは、もどかしくて心苦しい。それが自分から想い人へ誘いを掛けたものだとしたら尚更だ。

 今日は日程を調整してオフを合わせ、勇利と二人でショッピングに行くはずだった。それが昨日になり、急遽俺に仕事が入ってしまったのだ。この日の為に勇利を連れて行きたい店を頭の中でリストアップし、食べて貰いたいとっておきのレストランも予約してあったというのに。
 先方の都合でどうしても断れないことを謝罪すれば「また今度行こう? 明日は買い出しだけしてくるから、僕一人でも大丈夫だよ」と微笑まれた。気にしないようにと掛けてくれた言葉は温かく、ありがたいだけに不甲斐ない。

 向けられた優しさに比べて、自分のことばかりの俺ときたら。
 いっそのこと責めてくれたら良かったのに。オフを一緒に過ごせないことに思い切り拗ねて甘えて欲しい。心に浮かんでくる、あまりにも身勝手な思いに辟易する。いくら期待したところで勇利がそんな態度を取ることはない。何故なら俺は勇利のコーチでライバルで同居人ではあっても、恋人ではなかった。こんな願いを浮かべる資格など何処にもないのだ。
 勇利と深い仲になりたいとは言えずにいる。この心地良い関係を壊したくなかった。隣で笑顔を見られるだけで十分じゃないか。そうやって何度も自分を納得させようとして、それでもまだ未練がましく焦がれ続けている。
 恋とは人を臆病にさせるものらしい。こんなことは生まれてはじめてだった。
 もしも俺達が恋人同士だったら、反応は違ったのだろうか。

 勇利は早々に買い出しを済ませることにしたらしく、先に家を出ると言う後ろ姿を玄関まで追った。俺には、もう暫くすれば先方からの迎えが来る手筈になっていた。
 彼一人を残して出て行くよりは、俺が見送る方がまだ良いことのように思えて、小さく息を吐く。それがただの自己満足に過ぎないと分かってはいてもだ。相手を見送り、ドアが閉じられた後の静けさを味わって欲しくなかった。自分だけが世界から取り残されたような感覚はやけに胸を苦しくさせる。マッカチンもいることだし、勇利はきっと気にはしないだろうけど。
 本当は寂しいと思って欲しい癖に。心の内側で囁くもう一人の自分の声は、聞こえない振りをした。

 リビングから顔を出したモカ色の家族が、気落ちする俺を慰めるように寄り添ってくれた。膝をつき、心優しい子のあたたかな毛並みを指先で柔らかくくすぐる。伝わってくる温もりに沈んだ心が癒やされるのを感じた。
「すぐ帰ってくるから、良い子で待っててね」
 靴を履き終えた勇利がしゃがみこんでマッカチンに声を掛けると、物分かりの良い返事が一声吠えた。同じ目線になった勇利が表情を緩め、俺と揃いの指輪がはまった手でマッカチンの顔を撫でまわす。
「じゃあ行ってくるね、ヴィクトルもお仕事頑張って」
「ありがとう、気を付けて行くんだよ」
「ただ買い出しに行くだけだよ? 大袈裟だなあ」
 目の前で無邪気に微笑む姿が愛しくて、両腕に閉じ込めてしまいたくなる。恋人としてキスが出来たらどんなに幸せだろうか。形の良い額に、口に含みたくなるような可愛らしい耳に、まろやかな頬に、愛らしい唇に。

 この先の関係を望まないなら耐えるしかない。今勇利を抱き締めれば唇を奪い、押し倒して身体の隅々まで貪ってしまうに違いなかった。以前なら事ある毎にハグをしては目の前の体温を感じていたというのに、今となってはもう考えられない。
 それでも諦めの悪い腕は無意識に勇利へと伸びてしまうから、不自然に見えないようマッカチンの背中をもう一度撫でた。
「夕飯は一緒に食べられるんだよね?」
「ああ、出来るだけ早く帰るよ。連絡する」
 下がった眉尻の可愛さに自然と頬が緩む。下心を悟られたくないと思えば満足に見つめ返すことも出来ず、さり気なく視線を逸らした。触れ合いが嬉しいのか、マッカチンは気持ちよさそうに尻尾を振っている。俺も勇利に触れることが出来たらと、もう何度も捨てようとした想いに胸が張り裂けそうだった。
「行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
 立ち上がった勇利を、手を振って送り出す。パタンと音を立て、呆気なく俺と勇利の世界を隔ててしまったドアを見つめた。
 俺から触らなくなったことに勇利は気付いているだろうか。一度自覚してしまえば、それまでどうして平気でいられたのか不思議なくらいだった。勇利へと向ける感情は、とっくに俺の心を埋め尽くしていたというのに。

 勇利が大事だ。だからこそ安易に触れてはいけないと思った。
 本当は触れたいし、知りたい。彼本人すら知らない一番奥深くまで。俺だけがその全てを赦されたい。この想いは勇利を困らせ、怖がらせるものだ。知られればきっと俺から離れていくだろう。そう考えるだけで心が冷えていくようだった。
 その一方で、自分の想いに蓋をし続けることに限界も感じていた。理性と感情は何時だってちぐはぐで、気持ちは溢れ出そうとするばかりだ。

 いつまでこの想いに素知らぬ顔をし続けられるのかも分からない。今だって勇利に親しげに接する他人を見るだけで沸き上がる嫉妬に胸の奥が軋み、冷静さを装うのも一苦労だ。振り向いて貰えれば嬉しくて、ずっと俺だけを見ていて欲しいと何度も願った。
 本心はこんなにも臆病で身勝手だと知ったら、どんな顔をするだろうか。勇利はスケーターとしてのヴィクトル・ニキフォロフならば好きなはずだ。でもそうじゃない俺のことは、どう思っているんだろう。

 勇利が俺を好きになってくれたら良いのに。まるで子供のような考えが浮かんで、唇を歪める。腕の中で、ずっと大人しく寄り添ってくれているマッカチンに頬擦りをした。
「どうしようか、マッカチン」

 そうして暫くの間途方に暮れていた俺を、無機質なスマートフォンの着信音が現実へと引き戻した。

2023年10月29日