本当は、振り向いてほしい

 練習を終えた帰り際、ヴィクトルがリンクスタッフに呼び止められた。
 隣で待つのは邪魔になるかもしれないと思い、ヴィクトルに外で待つと目配せをしてクラブの玄関ドアを開ける。練習上がりでまだ温かい身体は、室内との温度差にぶるりと震えた。今日のサンクトペテルブルクは曇りで、風は冷たいけど思ったより強くない。
 とは言え、この寒空の下にいればすぐに冷えてしまうだろう。ニット帽とマフラー、それから手袋。この時期には必需品だ。衣服に覆われていない所は冷えた風に晒されて、あっという間に身体から熱を奪っていく。
 マフラーの隙間から風が入らないように手で整えていると、後ろから声を掛けられた。

「待たせちゃったね、ごめん」
「ううん、大丈夫だよ」
 ヴィクトルの顔が近付き、柔らかな唇が僕の鼻の頭に触れた。ちゅ、と可愛らしい音がして、そこで漸くキスされたことに気付く。
「冷たいね、早く帰ろう」
 肩を抱かれ、ヴィクトルのキスに跳ね上がった心臓が今度は早鐘を打ち始めた。自然と肩を抱き寄せる手には、僕と同じ金色の指輪が光っている。

 ヴィクトルが好きだ。
 そして、ヴィクトルも僕を好いてくれている。ただそれはきっと、弟子や一緒に切磋琢磨する仲間、あるいは友人としてであって、僕と同じ感情ではない。
 ヴィクトルは魅力的だから、彼と付き合いたい相手は大勢いるだろう。そんなヴィクトルの相手に僕なんて、釣り合うはずもない。分かってはいる。だからと言って素直じゃない僕は諦めることも出来なくて、それなら初めから告げなければ良いと思った。そうすれば、少なくとも振られることはないから。
 不毛なことはやめたらいいのに、この先も報われることはないんだから、想い続けても辛いだけだ。何度も言い聞かせようとしたけど、結局は止められなかった。だって好きなんだ。近くにいても例え離れていても、彼を想えばいつだって胸は高鳴った。
「勇利、大丈夫?寒い?」
「平気だってば、ヴィクトルは心配し過ぎだよ」

 ふわりとシャンプーの良い香りがしたかと思えば、俯いて黙ってしまった僕の顔を覗き込み気遣ってくれる。
 どうしてヴィクトルは僕に優しいんだろう。この関係が崩れたら、気安く触れてもらうことも出来なくなってしまう。それがとても怖かった。
 いつかヴィクトルに素敵な人が現れる、そのときにはちゃんと諦めるから。こんな救いようもない僕の気持ちにどうか気付きませんように。もう少しだけ、このまま。

 寒さを装って、僕は自分からヴィクトルの逞しい身体にそっと身を寄せた。

2023年10月29日