僕達のモーニングルーティン

 夢の向こうで僕を呼ぶ声がする。
 コーヒーの芳しい香りが鼻をくすぐった。ヴィクトルが毎朝淹れてくれるコーヒーの香りに、ふわりと意識が覚醒する。瞼越しに朝日を感じたものの、強情なそれはなかなか開こうとしなかった。
「おはよう勇利。朝食出来てるよ」
「ん、ぅ……ヴィクトル……? まだ、あと五分……」
「こら、コーヒー冷めちゃうぞ」
「……僕はもう、布団から出られない呪いにかかったんだ……」
 今日の練習は午後からのはずだ。日課のランニングには行くとして、もう少しだけ寝ていたい。寝ぼけた頭で考えながらもぞもぞと二度寝の態勢に入る。ヴィクトルが僕を覗きこんでいる気がしたけど、それよりも睡眠を優先したい。昨夜は寝る時間が遅かったのだ。
 
 二度寝を決めた僕にヴィクトルからの反応はない。起こされないということはまだ眠っていていいんだ。
 良い匂いのする枕を抱き寄せて顔をうずめ、深く息を吸い込む。安心したのも束の間、頬にくすぐったい感触がしたあと、耳元で低い声が響いた。囁く声は、夜の色をしていた。
「……へえ? それは俺へのお誘いってことで良いのかな?」
「起きます!!」
 不穏な台詞に強情だったはずの瞼がパチリと開く。
 慌てて声のした方を向くと、ヴィクトルが悪い顔をしていつの間にか僕に覆い被さっていた。そんな顔にもうっかりときめいてしまうのだから、全くもって恋は僕の手に負えない。
 ヴィクトルが頭の両横に手を付いているせいで起き上がることも出来ず、伸び上がって抜け出そうにも跨いだ両膝でがっちりと脚を挟まれ動けなかった。
 しまった、ほんの少しだけいつもより長く僕の瞼が閉じていたばかりに。
「朝から情熱的だね、勇利。嬉しいよ」
「ん、っ……!」
 僕を骨抜きにする艶を含んだ声が耳に絡みつく。耳朶を甘噛みされ、身体が勝手に反応してしまう。
 きっと今、耳から全身に向けてヴィクトルの甘い毒が回りはじめた。大きな手のひらが熱を焦らすようにうなじを辿る。
「待って待ってごめんなさい起きるから! もう無理だよ、昨日どれだけしたと思ってるの!?」
「うん、素敵な夜だったね」
「そもそも僕が起きられないのはヴィクトルのせいだろ! あ、あんなにいっぱい……!」
 思い出すだけで顔に熱が集まる。盛り上がってしまったのは確かで、下手に記憶が残っているだけにいたたまれない。盾にするべく抱いていた枕に縋れば、瞬く間にヴィクトルが取り上げてしまった。
 まずい、流されそう。このままでは今日は走りに行けない気がする。
 
 昨夜の出来事を振り返るように、コーチ兼恋人はうっとりと笑みを浮かべた。
「照れなくて良いのに。可愛い」
「違うって! あ、ねえヴィクトル、コーヒー冷めちゃう! 僕淹れたてのコーヒーが飲みたいな! 起きよう!?」
「とっくに起きてるよ。ほら、ここも元気になっちゃった」
 僕の手を取りヴィクトルがズボンの上から股間を触らせると、何か硬いモノが当たった。昨夜の僕が散々泣いて善がった、それ。
「なんで!?」
「もうダメ、諦めて。コーヒーは後でね。今は勇利が食べたい」
「や、もう、立てなくなっちゃうから……」
「昼まではまだ時間もあるし大丈夫。……それとも、本当にいや?」
「……!」
 Tシャツの上からいたずらに身体を弄っていたヴィクトルの手が止まる。僕の様子を伺う眼差しに耐えられず、両手で顔を覆った。
 こんなとき、最終の判断を委ねてくれるヴィクトルを恨みたくなってしまう。
 僕の気持ちを聞かせてほしいというのは意志を尊重しているようで、要求されているようにも見える。僕も望んだと認めることになってしまうから。その気にさせたのはヴィクトルなのに。
 有無を言わさず最初から奪ってくれたら良かった。そうしたら全部、ヴィクトルのせいに出来たのに。
 
「勇利、顔を見せて」
 最後までちゃんと、責任取ってよ。
 顔を覆っていた両手を伸ばし、ヴィクトルの首に絡めて引き寄せた。口に出来ない精いっぱいの想いを唇で押し付ける。
 ふに、と柔らかな感触だけを残して離れた。至近距離にある蒼い瞳が驚きに染まり、そしてほころぶ。
 朝日を受けて輝く銀糸が眩しい。
 本当は起き抜けにするのも嫌いじゃないなんて言ったら、どんな顔をするだろう。毎朝、カーテン越しの淡い光の中で甘くじゃれ合うのだって、僕は。
 
 もう一度重なった唇を舌でノックされる。自然と開く唇は従順で、更に言えば積極的だった。侵入してきた熱い舌を受け入れ、自らも差し出す。こんなこと、どこで覚えたのかは言うまでもない。
 二人で育てた習慣は、自分でさえ知らなかった一面を僕に教えてくれる。もしくはヴィクトルと生活を共にする内に変わってしまったのかもしれない。その変化すら愛おしく思えて、胸が震えた。
 
 目覚ましはまだ鳴らない。
 僕達はあたたかな光が降り注ぐシーツの海に、ゆっくりと沈みこんだ。

2023年10月29日