ご褒美いくつ?

 そろそろ帰ってくるはずの彼を、僕は一人では広すぎるベッドに入って待つことにした。
 早く帰ってこないと、僕寝ちゃうからね。心の中で彼に呼び掛けていると、玄関から物音が聞こえた。リビングで寝ていたはずのマッカチンの足音もしたから、どうやら起きてお迎えをしてくれたようだ。大好きな心地よい声がドアの向こうから聞こえる。ねえ、早く来て。

 聞き慣れた足音が真っ直ぐ寝室に向かってくる。外の冷えた空気とともに入ってきたのは、僕が朝からずっと待っていた人だった。
 蒼い瞳が僕の姿を認めると、世界一整った顔がふわりと緩む。枕元のライトを点けておいて正解だった。開いたドアから漏れる廊下の光源だけではきっと、その表情までは見えなかっただろう。
「勇利、ただいま」
「おかえりなさい。早かったね」
 平静を装い、布団から顔を半分だけ出してヴィクトルを迎える。にやけてしまう口元を隠すためだ。本当ならマッカチンよりも飛び跳ねて熱烈にお迎えしたいくらいだけど、それは恥ずかしいから絶対にしない。

 ヴィクトルはベッドのそばまでやって来ると、膝を折って僕と視線を合わせた。僕は掛け布団の縁を両手でぎゅっと握り、うっかり布団を剥ぎ取られないようガードする。
「勇利と一緒に寝たくて急いで帰ってきたんだ」
 薬指にお揃いの金色を宿した指先が、僕の髪を優しくくすぐった。
 コーチとしてのヴィクトルはとても厳しいけど、恋人としての彼は大層僕に甘い。僕を喜ばせることばかり言うから、締まりのない顔を見られないように毎回必死だ。
「お疲れさま。お風呂入る?」
「シャワーだけ浴びてくるよ。お風呂は明日勇利と一緒に入りたいな」
「……うん。いいよ」
 花開くように喜びを表現するヴィクトルに、胸がくすぐったい気持ちになる。表情筋がゆるゆるになった顔を見られてしまいそうで、僕は急いで布団を頭からすっぽりと被った。

*

 シャワーから戻り、バスローブを脱いだヴィクトルがベッドに入ってきた。
「勇利だ……」
 ぎゅうう、と音がしそうなくらい抱き締められる。お風呂上がりなのも相まって、普段より高い体温に僕の鼓動は速まった。こっそり視線を上げると、至近距離で目が合う。一度合ってしまえば逸らせなかった。
 僕を見る瞳はいつも、ヴィクトルお手製のフレンチトーストより甘くてほかほかで、そしてやわらかい。さながら僕はフレンチトーストの上に乗せられたアイスクリームだった。乗せられたら最後、あとは溶けてしまうだけの。
「勇利もお疲れさま。今日は練習見てあげられなくてごめんね」
「ううん、仕事だもん。あのね、ジャンプの動画撮ってもらったんだ。明日見てくれる?」
「もちろん。俺がいなくても一日頑張った勇利に、ご褒美あげる。何が良い?」
 綿菓子みたいな声と眼差しが僕を包み込む。それだけでもう、ご褒美をもらったような気分だった。

 逞しい胸板に額を擦りつけて甘える。あたたかい。今日はずっと、このぬくもりが欲しかった。
 今朝は僕が起きる前にヴィクトルが出掛けてしまったから、触れ合ったのは昨夜が最後だ。起こしてくれたら良かったのに。そうしたら、ヴィクトルのいない昼間も寂しい思いをしなくて済んだはずだ。余計寂しさを抱えていたかもしれない、という予測には目を瞑ることにして。
 大きくて力強い手のひらが、僕の頭を優しく撫でる。
「俺の可愛い勇利。寂しい思いをさせたね」
「べ、別に寂しくなんか……」
「そう? 俺は寂しかった」
 ヴィクトルは意地も張らせてくれないらしい。そんな風に素直に言われたら、僕だって認めるしかなくなってしまう。それに口で何を言っても、こんな態度ではどうせ初めから隠せやしないのだ。恐らく、帰ってきたときには既にバレていたに違いない。この際だからもう開き直ってしまおう。
「じゃあ、朝までぎゅってしてて」
「良いよ。それから?」
「それから? まだ良いの?」
 驚いて、ぱっと顔を上げる。形の整った唇が僕の全部を蕩かす声で、良いよ、と囁いた。
「ひとつじゃなくて良い。いくつでも良いんだ」
「どうして?」
「ご褒美だからだよ。勇利がこんなに素直に甘えてくれているんだ。勇利がしてほしいことなら、なんでも聞いてあげたい」

 ヴィクトル以外のご褒美ってなんだろう。
 安心する香りと肌に馴染む体温に、僕は働かない頭で必死に考える。
「えっと、それなら……。明日はちょっとだけ、寝坊しても良い?」
「勇利ってば、本当に可愛いこと言うね。良いよ。朝食が出来たら起こしてあげる」
 明日の朝の約束が出来たことに安堵する。僕、こんなにヴィクトル不足だった?

 そうだ。
「ヴィクトルも今日は仕事頑張って偉かったから、ご褒美あげる」
「本当? 頑張った甲斐があったな。ご褒美は勇利が良い。勇利からのキスが欲しい」
「良いよ。それから?」
 銀色の長い睫毛が瞬きで揺れる。意外そうな顔つきのヴィクトルに、僕は素早く唇を重ねた。
「ヴィクトルが言ったんだよ。ご褒美はひとつって、誰が決めたの?」
 晴れた日の海のように輝く蒼い瞳が、驚きから愛おしさに変化する様を間近で見る。こんな表情を見られるのは自分だけなのだと思えば、少しくらい大胆なことも出来る気がした。
 いつ見ても惚れ惚れとする綺麗な笑みを浮かべ、欲を滲ませた低い声が囁く。
「それならやっぱり、俺のご褒美はひとつだ。勇利が欲しい」
 ヴィクトルがベッドの中で態勢を変え、熱を帯びた身体が覆い被さってくる。
 僕はご褒美だから、素直に両腕を伸ばして僕の全部を丸ごとヴィクトルに差し出した。

2023年10月29日