手を繋げば

「ヴィクトル! 僕とデートしよう!」

 この夏、長谷津で日本の暑すぎる夏を過ごした俺達は、明後日の便でサンクトペテルブルクへ戻る予定になっていた。俺の部屋には抱えきれないほどのお土産の山が積み上がっている。そろそろ荷造りを始めないと勇利に怒られるかもしれない。隣にいてもいなくても、頭の中は勇利のことでいっぱいだ。
 さて、と寛いでいたソファから腰を上げようとしたところで、部屋の襖が勢い良く開いた。こんな開け方をするのは、この家にはたった一人しかいない。
 顔を上げれば予想した通り、愛しい恋人が立っていた。しかし予想していた様子とは違い、太い眉をキリリとさせ、その瞳には何か決意めいたものを感じる。まあ、どんな顔をしていても俺の勇利は可愛いのだが。
 そして勇利は部屋の前から動かずに開口一番、俺をデートに誘った。

 デートって、そんな雰囲気で誘うものだっけ? 今のはどちらかと言うと、時代劇で見たハタシアイに挑む武士のような印象だ。頭の片隅で疑問を抱きながら、それでも俺は勇利からの初めての嬉しいお誘いを快諾した。
「良いね! 行こう!」
 意気込んでいた顔が、一瞬にして喜びの色に染まる。ふわりと紅潮する頬が愛らしい。かと思えば先ほどの勢いから打って変わり、今度は眉をハの字にして迷う素振りを見せた。コロコロと変わる表情が一生懸命さを感じさせて、つい口元が緩んでしまう。
「あの、ヴィクトルは行きたいところある? 明日しかないから、あんまり遠出は出来ないんだけど……」
「海に行きたい。勇利と夕日が見たいな」
 今年の夏の見納めに。そう告げれば勇利はようやく、ほっとしたように頷いてみせた。

 夕日が辺り一面を赤く染めている。
 昼間に二人ではしゃいだ海を、並んで静かに歩く。二つの長い影が重なり合って砂浜に映っていた。
「ねえヴィクトル。デート、本当にここで良かったの?」
「うん。お祭りもショッピングも楽しんだし、リンクでも勇利とたくさん滑ったしね」
 俺の様子を上目遣いで伺いながら、勇利がおずおずと話し始めた。どんな想いも受け止められるように、じっと勇利の瞳を見つめる。
「デートに誘うなら、何かプランがないといけないでしょ? だからずっと考えてたんだ。でも、何をしたら良いかどうしても分からなくて。その、僕からデートに誘ったこと、ないから……」
 自信なさげに小さくなっていく声は、波の音にかき消されてしまいそうだった。安心させたくて、ゆるく絡めていた指先に力を込める。
「だから最近、難しい顔をしていたんだね」
「気付いてたの?」
「うん。何か考えてるなとは思ってたけど、何に悩んでるかまでは分からなかった。だから、勇利から話してくれて嬉しい」

 長谷津は人も環境も良く、穏やかでとても過ごしやすい。以前は何処か居心地の悪さを感じていたらしい勇利も、今は周囲のあたたかさを素直に受け止められているようだ。
 だからこそ帰る日が近づくにつれ、故郷を離れるのが辛くなってしまったのかもしれないと思っていた。しかし実際はそうではなかったようで、いらぬ心配だったらしい。
「俺はね、勇利。勇利と二人でいられるなら、行き先は何処でも良いんだ」
「僕も。ヴィクトルと一緒なら、きっと何処でも楽しいから」
 思いがけず耳にした甘い言葉に立ち止まると、勇利も気付いて歩みを止めた。すると今度はそんな俺の反応に拗ねた声が響く。
「あんまり見ないで。もう、夕日が見たいって言ったの、ヴィクトルだろ」
「誤算だったな。日が沈んだら、勇利の可愛い顔が夜に隠れてしまう。今この瞬間の勇利を目に焼き付けておかなくちゃ」
 勇利の顔が茜色に染まっている。照れているのか、夕日で赤く染まったのかまでは判断が付かなかった。もっと近付けば、あるいは。

 そこまで考えたところで、繋いでいない方の指先が俺の髪にそっと触れた。勇利が眩しそうに微笑む。
「ヴィクトルの髪、夕日に透けてオレンジ色に見える。綺麗……」
 胸の内を雄弁に語る、キラキラと輝く瞳に心を奪われる。勇利の方がずっと綺麗だ。そう思うのに、何一つ言葉が出て来ない。しばし見つめ合っていると、ケアの行き届いた唇が大きく開いた。
「向こうに戻ったら、リベンジするから! ちゃんとプラン考えて、それでヴィクトルみたいにデートに誘うから! だからその、もう少し、待ってて……」
「勿論だよ!」

 勇利がまたデートに誘ってくれるんだって。帰ったらマッカチンにも報告しなくちゃ。この先の楽しみが更に一つ増えた。勇利と一緒なら何をしても楽しいし、俺にとっては何処に行くのもデートだ。
 暗闇に染まりはじめた家路を勇利と並んで辿る。もう少し余韻に浸っていたいから、出来るだけ遠回りをしながら。

2023年10月29日