視線の先は

 勇利が綺麗になったと、クラブ内で噂になっているらしい。「恋でもしたんじゃないかって言われてるの、知らない?」とミラから聞かれたときは内心焦った。変化に気付いているのは俺だけではなかったのだ。

 以前よりも明らかに表情や仕草に艶が増した。目が合ったときに見せる、弾けるような笑顔は見惚れてしまう程可愛い。俺がリップクリームを塗り終わるまで瞼を閉じてじっとしている姿は、まるでキスを待っているようだった。無防備に捧げられる艶やかな睫毛と滑らかな肌、そして手入れを怠らずに続けている為にふっくらとした瑞々しい唇。誰にも役目を譲る気はないが、毎回我慢を強いられている気分になる。いくら好きでも、想いの通じ合っていない相手に口付けは出来なかった。中国大会の出来事はノーカウントとして。
 いつも勇利の魅力を周囲からガードしていた、あの野暮ったい服装もそうだ。ロシアに来たばかりの頃、俺は勇利に似合うものをとあちこちの店に連れ回しては買い与えた。当初は勿体なくて着られないと言っていた服にも、勇利は最近になって袖を通すようになった。折角買ったのに着ない方が勿体ないと口を出したことが効いたのだろうか。俺の見立てに狂いはなく、どの服も勇利の魅力を更に引き立てた。

 それら全てのきっかけは恋をしたからなのか。噂になる程であれば、俺の欲目ではなかったということだ。彼の魅力が俺以外にも伝わっている。良いことではあるが、その事実に胸の奥がじくりと痛んだ。

 更衣室での帰り支度を終えた勇利が、クラブの廊下で待っていた俺の元へ急ぎ足でやって来る。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「気にしなくていいよ。さ、帰ろう」
 うん、と無邪気に笑う勇利は、やはり輝いて見えた。

 二人並んで俺達の家に帰る。拠点をサンクトペテルブルクにすると決めたとき、勇利はすんなりと同居を受け入れてくれた。どのように同居を誘おうかとあれこれ考えていた俺にとって、これは嬉しい誤算だった。お陰で今は二人と一匹で、充実した生活を送っている。
 ふと会話が途切れ、隣へ視線を向ければ勇利と目が合った。その瞬間、ずっと頭の中にこびり付いて離れなかった疑問が口をついて出た。
「勇利は好きな人、いるの?」
「えっ?」
 勇利は目を丸くして、心底驚いた声を出した。

 本当は聞くつもりなんてなかった。でも一度口にしてしまった内容を今更なかったことには出来ない。俺から恋愛の話を振るなんて、出会ったばかりの頃以来だ。純粋に勇利のことをもっと知りたくて聞いたあの頃とは、環境も心境も変わってしまった。クラブで噂になっている話は伏せておく。言えばきっと、勇利は身構えてしまうから。
「最近綺麗になったから。前から綺麗だったけど、それよりもずっと」
「え? いやいや、そんなことないよ。それに僕、男だよ?」
「男かどうかなんて関係ない。勇利は綺麗だ」
 俺は立ち止まり、戸惑う瞳を熱心に見つめた。両手をぶんぶんと振って否定していた勇利の頬が、照れて赤く染まっていく。
「あ、ありがと……」
 その、あの、と何度か口の中でもごもごと繰り返した後、勇利が覚悟を決めた眼差しで口を開いた。
「……僕、好きな人、いるよ」
「そう、なんだ。俺の知ってる人?」
「うん。ヴィクトルもよく知ってる人だよ」
 今度は俺が驚きに目を見開く番だった。じっと見つめてくる瞳から目を逸らすことが出来ない。聞いたのは俺なのに、いざ宣言されるとどう反応すれば良いか分からなかった。
 平静を装うのに苦労していると、勇利が言葉を続ける。
「ね、教えたらヴィクトルは僕のこと、応援してくれる?」
「勿論だよ! 心配しなくても大丈夫、勇利は十分魅力的だ。勇利にアプローチされたら誰だって恋に落ちるさ」
「そんな、ヴィクトルじゃないんだから」
「嘘じゃない。本当に思ってる。それに相手の好みが分かれば、よりアプローチしやすくなるからね。一緒に対策を立てよう」
「振られたら、慰めてくれる?」
「任せて。ないと思うけど、もしそうなったら朝まで飲み明かそう。カロリーなんて気にしなくて良い。その後のダイエットもちゃんと付き合ってあげる」

 心を打ち明けてくれた勇利を応援しなくては。その一心で勇利の言葉に応える。ウインクを飛ばせば、愛らしい眉尻がふにゃりと下がった。勇利が不安を抱えているなら、そんなものは全てなくしてあげたい。
 俺は自分が上手く笑えていることを祈った。
「……ありがとう。ちょっと勇気出た。僕、ずるいんだ」
「全然ずるくないよ。不安になるのは誰だって同じだ。自信持って、俺がついてる」
 ああ、聞きたくないな。恋が叶ったら、勇利は家を出て行ってしまうのだろうか。

 勇利は視線を落とし、左手で薬指の指輪を大事そうに撫でた。そのまま右手をぎゅっと包み込んで、俺を見つめる。
「あのねヴィクトル。僕ずっと、ヴィクトルのことが……」

2023年10月29日