僕の背中

 コーチからしばしの休憩を言い渡され、僕はベンチに座って水分補給をしていた。
 スポーツドリンクが散々転んで疲弊しきった身体全体に染み渡っていくのを感じ、深く息を吐き出す。脱力した肩に掛かったタオルは流した汗でじっとりと湿っていた。まだ滑りたいと直談判したけど、休憩を挟まなければパフォーマンスも上がらないという冷静なコーチの言葉はやはり正しかったようだ。地肌から額へと滴り落ちてくる汗を再度タオルで拭き取り、手探りで近くに置いてあった眼鏡を掛ける。

 僕のコーチであるヴィクトルはリンクサイドでフェンスに凭れ、真剣な眼差しでタブレットを確認していた。先ほど撮影した僕の動画を見ているのだろう。

 その姿を見て再認識する。やっぱりヴィクトルの背中は広い。
 練習着の上からでも分かる鍛え上げられた筋肉は日々の努力の証で、毎日見ているにも関わらず飽きることなく惚れ惚れしてしまう。僕の大好きな背中だ。着替えるときにこっそり視線を送ってしまうのは、気付かれていないと良いのだけど。
 そんなヴィクトルが今、無防備に背中を晒している。その背中に今日の僕は何故かやけに惹かれた。触りたい。立ち上がりふらふらと背後から近寄ると、気配を感じたのかヴィクトルが振り返ろうとした。
「勇利?」

 ぎゅ。
 僕は両腕をヴィクトルのお腹に回し隙間なく抱きついた。
 ヴィクトルはいつもあたたかくて落ち着く匂いがする。触れ合うだけで余計な力が抜けていくし、抱えていた不安や心配事なんてたちどころに消えてしまうから、僕はつい甘えてしまう。ぐりぐりと顔を押し当て、大好きな匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。勢いが良すぎたせいで眼鏡がずれてしまったけど、手を離すのは嫌で広い背中に眼鏡を押し付けて元の位置に戻した。ヴィクトルを存分に味わえば、心にもみるみる栄養が補給されていくのが分かる。
 他の人の匂いなんて嗅ごうとは思わないのに、どうしてヴィクトルだと嗅ぎたくなってしまうのだろうか。これでは僕を抱き締めて深呼吸してくるヴィクトルのことを言えなくなってしまう。恥ずかしいから止めてほしいのに。
 肌触りの良い練習着越しに硬い腹筋をペタペタと触れば、目の前の身体が一瞬ぴくりと強張った。僕は気にすることなく、今度は首筋に額を押し当てる。剥き出しのそこは熱を持っていて、なんだか僕の額よりも熱く感じた。

 そういえば、ヴィクトルを後ろから抱き締めるって新鮮だな。
 いつもとは逆だ。昨夜だって、後ろから覆い被さるヴィクトルの逞しい胸板と腹筋が僕の背中に密着し、決して離さないとでも言うように身体を激しく揺さぶられた。互いの体液で濡れた肌の感触がフラッシュバックして一人赤面する。ヴィクトルにしか触れられない場所が、僕の意志とは関係なしにきゅんと締まった。
 必死にシーツを握る僕の指を節くれだった長い指が絡め取り、逃げられないよう押さえつけてきたことを思い出す。そんな仕草に僕は更にドキドキして……。
 いけない。昼間からなんてことを考えてるんだ。我に返り、首を左右に振って煩悩を遠ざける。僕はため息をひとつ吐いて冷静さを取り戻した。

 何を考えていたんだっけ。そうだ、ヴィクトルの背中だ。
 ヴィクトルは僕のことを前からも後ろからも抱き締めてくるけど、僕の場合は正面からが多い。僕が後ろから抱き締めても覆い被さることは出来ないし、それは正面からしても同じで、体格差があるのだから当然といえば当然だ。
 でも腕の中に閉じ込められて熱の籠った瞳で上から覗きこまれると、心臓の音がヴィクトルにまで届きそうなほど高鳴ってしまう。僕もそんな風にヴィクトルをもっとドキドキさせることが出来れば良いのに。

 待てよ、ヴィクトルが座っているときなら出来るかも! ただおんぶされているだけの状態になってしまうかもしれないけど、実際に試してみなきゃ分からない。
 気になった僕は早速ヴィクトルに呼び掛けた。
「ねえヴィクトル! ちょっとベンチに座ってみて……」
「ゆうりぃ」
 やけに明るい声が、僕の声に重なった。振り返ったヴィクトルの形の良い唇には笑みが浮かんでいる。
「随分積極的だね。嬉しいよ」
 ヴィクトルの様子がおかしいことに、僕はここでようやく気が付いた。笑っているのに何故だか目が据わっているように見え、僕は小首を傾げる。
「俺にも勇利を抱き締めさせて欲しいな。ここがリンクじゃなかったら、もっと嬉しかったんだけど」

 言われた言葉を頭の中で反芻する。そうだ、ここはチムピオーンのリンクで、今は休憩中で……。と言うところまで考え、はた、と動きが止まった。
 慌てて左右を見回すと、周囲からの生暖かい視線が僕達に向けられている。
「ごごごごめんなさい!」
「何故謝る? 俺は勇利から抱き締めてくれて嬉しいって言ったんだよ」
 急いで離れようとすると、その前にガシッと手首を捕まれた。掴む力は強く、離れようと抵抗しても一切びくともしない。
 まずい。逃げられない。僕は顔からサッと血の気が引くのを感じた。

 その後、ベンチに座るヴィクトルに後ろから覆い被さる僕……ではなく、ヴィクトルのおんぶおばけにさせられた僕の写真がSNSによって世界中に発信されたのは、言うまでもない。

2023年10月29日