もしかしなくても僕は逃げないといけなかったんじゃないか?と気付いたときには、既にヴィクトルに手を引かれて歩き出していた。
そんなことを言っても、実際は逃げ場なんてないのだけど。だって今日は、練習が終われば後は予定もないから一緒に帰ろうと言われていたし、寧ろ一緒に住まわせてもらっている身だ。ヴィクトルは選手兼コーチで、僕はその生徒である。家でもリンクでもそばにいるのに、一体何処へどう逃げろと言うのだろう。
そもそも逃げてどうするんだ。何の為に遥々ロシアまで来たのか分からなくなってしまう。兎も角今の混乱した頭では、まともなことは何も考えられなかった。
ヴィクトルに聞かれた、その事実だけが僕の頭の中をぐるぐると回っていた。ずっと隠していたことだったのに。
手を引かれたまま、黙って廊下を進む。
僕より身長が7センチも高く足の長さも違うせいで、ヴィクトルが早足で歩けば僕は自然と小走りになってしまう。普段は歩調を合わせてくれていたことに、鈍感な僕は今になって気が付いた。
ヴィクトルはスマートで、そしてずるい。こちらの様子をよく見ていてくれるのに、一切その気遣いは見せない。コーチとしては勿論、それ以外の場面でもいつだって僕のことを真剣に考えてくれるから、そんな風に大事にされ続けたら誰だって勘違いしてしまう。
全部ヴィクトルのせいだ。八つ当たりにしかならない感情を抱えて、それでも尚好きで堪らない広い背中を追った。
ロッカールームの扉を潜ったヴィクトルに僕も続く。室内に誰もいないことに安堵していると、ヴィクトルが扉に鍵を掛けた。
鍵?何が始まるの?説教?そういえば、さっきヴィクトルの顔が真っ赤だったけどなんでだろう。僕にあんなこと言われて怒ったのかな。ヴィクトルの恋人になりたいだけ、だなんて。そもそも「だけ」ってなんだよ。言った自分でも訳が分からないし、大体分不相応にも程がある。まあ、ヴィクトルに見蕩れて惚けていた僕が全部悪いんだけど。
いつものように練習中のヴィクトルを見ているといつの間にかユリオとミラが隣にいた。そしてミラに「本当にカツキはヴィクトルが大好きよね」と揶揄われたのが事の始まりだった。
好きという言葉に大袈裟に反応してしまった僕は、別に好きとかそういう訳じゃ、勿論選手としては好きだけど、あっでも選手じゃないなら好きじゃないってことでもなくて!と一人空回りした挙句「で、カツキは結局ヴィクトルとどうなりたいの?」と言うミラの言葉に流されて、ヴィクトルとどうなりたいのか考えてしまったせいだ。ついうっかり口から本心が出てしまった。
うん、どう考えても自業自得だ。時間を巻き戻せるならさっきの僕に冷静になれって言いたい。なんだっけ。そうだヴィクトル。その会話をよりによって一番聞かれたくなかった本人に聞かれてしまった。どうしよう、笑って誤魔化せるかな。説教だったら毎日のようにされてるから慣れてるし耐えられるけど、もし軽蔑でもされたら僕は立ち直れない。
師弟関係解消? もし、もう顔も見たくないなんて言われたら。浮かんでくるのは悪い想像だけで、目にじわじわと水分が溜まっていく。
きっとがっかりされたに違いない。一年振りに戻った故郷で自分の練習や仕事を熟しながら、僕のスケートの指導やプライベートの世話までしてくれているのに、当の弟子がこんなことを思っているだなんて夢にも思わなかっただろう。子豚ちゃんは一体何をしにここまで来たんだい、なんて言われるのがオチだ。
顔が熱い。さっきは恥ずかしさだけだったけど、今は自分が情けなくて目の前の顔が見れない。泣きそうになるのをなんとか堪えながら、僕はただ立ち尽くしていた。
「勇利」
名前を呼ばれ、身体がびくりと跳ねる。深く俯いた視線の先に、僕とヴィクトルの手が映った。
手、繋いだままだ。離さないと。
手を引こうとしたけど、もう触れることも出来なくなるかもしれないと思うとまるで力が入らなかった。大きくて熱い掌と、薬指に光る揃いの指輪。この手を離すなんて無理だ。そんなこともう出来ない。出来ないよ。僕の気持ちはあのバルセロナのときとは違う。今の僕は、ヴィクトルが好きだと自覚してしまったから。胸が苦しくて掻き毟ってしまいたい。好きがこんなにも苦しいなんて知らなかった。もっと幸せで、ずっと笑っていられるようなものだと思っていたのに。
助けて、ヴィクトル。身体の震えが止まらない。なんの反応も出来ずにいると、繋いだ手を逆にぐいっと引かれて、思いきり抱き締められた。
「勇利」
後頭部に手を添えられ、肩口に顔を埋める形になった僕からはヴィクトルの表情は見えない。ロッカールームに抑えた低い声が響く。
「さっきの、どういう意味?」
逃げられないなら覚悟を決めるしかない。
正直に話して、後はどうなってもヴィクトルの応えを受け入れよう。
「ごめんなさい。僕、ヴィクトルが好きなんだ。その、……そういう意味で。ごめん」
「何故謝る?俺は嬉しかったのに」
「へ……?え?」
「ライクの意味で好かれているのは分かってたつもりだったけど、勇利が俺を恋愛対象として見ていてくれたなんて知らなかった。知ってたらもっと早く……」
いや、そうじゃなくて。ああもう!もっとロマンチックにしたかったのに!と、もどかしそうな声が何処か遠くに聞こえる。
突然身体が離されて、今度は両肩を強く掴まれた。
「とにかく!俺も勇利が好きなんだ!」
待って。ヴィクトル、今なんて言った?
現実を受け止めるのが怖くて遂に都合の良い妄想が幻聴として聞こえるようになったのだろうか。そうに違いない。
僕は今間違いなくぽかんとした間抜けな顔をヴィクトルに晒している。そんな顔のまま見上げた、よく晴れた日の海のような瞳は僕と違って真剣そのものだった。何を言われたかはよく分からなかったけど、焦ってるヴィクトルも格好良いな。停止しかけた頭で考えられたことはそれくらいだった。
そんなヴィクトルは室内灯に反射して輝く銀髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、ぽつりと呟く。
「本当にもう、格好付かないな……」
ヴィクトルにかかれば、味気無い室内灯の光さえ星の煌めきに変えてしまう。僕の目にはヴィクトルがキラキラと瞬いて見えて、何処にいたって見つけられる自信がある。溢れ出る輝きに魅せられて、口からは勝手に言葉が飛び出した。
「ヴィクトルはいつも格好良いってば。それに、どんなヴィクトルでも僕は好きだよ」
「勇利……!」
花開くように晴れやかな表情へと変わる瞬間を目の当たりにしてしまい、僕は完全に釘付けにされた。感極まったらしいヴィクトルにもう一度ぎゅうと強く抱き締められ、口に何か柔らかいものが当たった感触がする。
顔がやけに近い。ヴィクトルって睫毛長いんだな。ていうか近過ぎない?くっついてるよね?……あ、離れた。目蓋が開いて、大好きな蒼い瞳が僕を見つめてくる。ちょっと待って。
さっきヴィクトル、僕のこと好きって言った?